(敬称略、投稿順)

正村和子、清水柳一、久野 公、
関西支部一同、荒木瑩子、清水史子、

正村和子

もう十数年前、米原さんにすっかり苦労をかけてしまいました。米原さんが声をかけてくださって無謀にも加わった仕事のしょっぱなに私が全然訳せなくて、米原さんでさえ、救出するのは大変な骨折りだったのでした。私には終生得がたい贅沢な数日間でした。米原さんの近くにいて通訳を聞くことができたのですから。

経営に関する日本企業のレクチャーでしたが、日本人講師の話は、いくら耳を澄ましても何を言いたいのかが頭に入ってきません。ところが、訳していく米原さんのロシア語を聞いていると、「なるほどそういうことか」と嘘みたいに分かりやすいのです。私にはロシア語を聞くほうが百倍も難しいのに、です。整然と論旨が通っていて、胸にストンと入ってくる。話し手の言わんとすることをぐいと掴み取り、聞き手の心に届くように再現していく力は神業のようでした。私はただもううっとりしていました。

冒頭で大失敗した私を立ち直らせようと、励ましの言葉を山のようにかけて下さったし、いろんな忠告も(もちろん服装のことも)してくださったのにちっとも生かせないままで、絶対的な敬愛の念だけが残りました。

その後に米原さんの記事や本が出始め、全然とりたくない新聞を一年余りも購読したものでした。米原さんには無尽蔵の力がつまっているとしか思えなかったから、ご病気のことを聞いても大丈夫だと信じていました。いくら悼んでも悼みきれません。

         

             CCmaryone@paradise              清水柳一

あれは、前世紀の、確か70年代の末頃だったと思う。チェーホフのシンポジウムに参加した時のことだ。壇上に目をやると、熱弁をふるう原発言者の脇で、ふてぶてしく悠々閑々とロシア語に通訳している女性がいる。その大振りな目張りの入った容姿から、ブリヤート・モンゴールか中央アジアの出身と思った。

 それが帰国子女の米原万里だということを知ったのは、しばらく経ってからだった。その時は、劇団の用事があって中座したので、彼女と知り合いになる機会を逸していた。

初めて挨拶を交わしたのは、それから2、3年ほど後、モスクワ放送の東京支局だった。支局長から「緊急事態発生!ぜひ来てくれないか」との連絡が入ったので、支局に駆けつけてみると、大騒ぎなど何もない。民放テレビの取材が終わったばかりだった。支局長宅の家庭料理を取材していたという。

 キッチンに入ると、いつか見たことのある女性が悠然とテーブルに向かって腰掛けている。取材班の通訳をしていたらしい。向こうが立ち上がった瞬間、こちらはすっと近寄って手を差し伸べた。ロシア語で挨拶すると、彼女は、なぜか、一瞬びっくりしたようだった。

隣りでは、支局長がにやりと笑っていたが、用もないのに、なぜわざわざ私を呼び出したのか、未だによく分からない。しかし、とにかく万里さんと知り合うきっかけを作ってくれたことだけは確かである。

その後、万里さんとは、何回か一緒に通訳の仕事をした。ロシア語放送の番組にゲスト出演してもらったこともある。とはいっても、彼女の活躍ぶりは、遠巻きに眺めていたにすぎない。

 万里さんと一事に賭けてみようと思い立ったのは、2003年の初めになる。ロシア語通訳協会の解散案をめぐる意見を聞こうと思った。万里さんに連絡を入れると、「解散には反対!」との即答が返ってきた。

それからは、会長としての万里さんと、丁々発止と渡り合ったかと思うと、意気投合しながら、協会の活動を通じて、その行動のエネルギーを身近に感じ取ってきた。

米原万里は直感で動く人だった。他人の言動と行動に神経を張り詰めていたが、その場その場の感覚で判断をくだすことが多かった。

 ひとの心を容赦なく傷つける、図太い神経の持ち主かと思うと、今にも消え入りそうなほど、おどおどした、繊細でやさしい心を秘める女性だった。魔女と天女が、悪魔と天使が同居していた。どうしても彼女を理解できないという人もいるだろう。だが、米原万里を愛する人は確実に増えている。

 彼女が腹の底からこみ上げる憎しみや怒りを感じていたものは何だったのか。生涯、いとおしく胸に抱きしめていたものは何だったのか。米原万里は、帰国子女に始まる人生を全速力で駆け抜けていった。時が経つにつれ、その価値がますます重みを増してくるに違いない。

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万里さん、何もかも本当にありがとう!もう無理しなくてもいいね。おつかれさまでした。

久野 公

その昔、総評の日ソ労組交流集会に米原さんには何度も通訳としてご協力いただいた懐かしい思い出があります。

                弔  辞

ロシア語通訳協会

関西支部一同

米原万里さん!

このところ、関西メーリングはひっそりとしています。

 何時もの様な賑やかなメールの往復が途絶え、皆それぞれ、米原万里さんへの深い想いがあり、井戸端会議的にはならないらしいです。

関西支部は殆どが家庭の主婦であり、子育てをやっと終えた者、悩みながら子育てと真っ向に取り組んでいる者など、環境に違いはあってもロシア語の勉強には、貪欲に取り組んで亀の歩みを進めている中で、1995年12月の関西支部第9回公開講座「第1の目と第2の目と第3の目」を協会派遣講師として講演して頂き、我々普通人とは違う頭脳の持ち主で有ると言うことに、驚かされたものでした。

その折、休憩時間に新大阪駅だけで販売の「八角弁当」について一言、「私の伯父(叔父)から『万里や、大阪に来たときにはなぁ、必ず、八角弁当やで…旨いで〜』と言われているので、何時も買うのよ、今日も食べたわ」と大阪駅弁礼賛があり、それからの私たちは、米原万里さんに魅了されると共に、八角弁当派になってしまいました。

その後、作家になられてからの万里さんは、超過密スケジュールの合間に「関西に行くので、何か話しましょうか?」と声を掛けてくださり、久しぶりに2002年3月、第19回の講座として「パンツから覗くロシア=下着をたどると、全く違うロシアが見えてくる」表題からして司会者がシドモド挨拶するような、時々、爆笑入りのくだけた話し方、ロシア語に関係のない参加者も理解しやすい洒脱な講演に時間の経つのを忘れるほどでした。

2004年9月にも「関西での講演があるから…」との事で、急遽、大阪市主催の人間大学講座講演後の時間を頂き、新大阪駅に近い会場で第21回講座を設け「ロシア人に学ぶ、アネクドートの作り方」のお話を伺い、普通の真面目な言葉がアネクドートに変遷してゆく経過などについて、これまた、異彩を放つ話し振りでした。

前回、「打ち上げを…」とお誘いしたのですが「忙しいので」と、駅でさよならをしたままでしたので、お体の事を何も知らない私たちは「今度こそ、ご一緒に」と用意してあったのですが、「すぐ帰りたい」とのご希望で、又もやお見送りとなってしまいました。

思えば2004年は闘病の真最中でありながら、淡々としてサインなどされる一方、子連れの会員に子供への話しかけなど、細やかな気配りも忘れず、穏やかで病気の素振りも見せられなかった万里さんはどれほど辛かったことだろうかと、胸が痛み切ない想いがこみ上げてきます。

殊の外、ロシア語通訳協会関西支部へ万里さんが下さった細かい配慮には、支部員一同、心から深い感謝をささげると共に、万里さんを敬愛し、万里さんに学び、成長したいと願っていただけに、万里さんの余りにも早過ぎる旅立ちには、ひとしお淋しさを感じております。

万里さん!ご本人も超多忙の毎日の中で、お母様への細かい介護もされ、愛猫、愛犬の世話も続けながらの心優しい万里さんは、もう、御両親に会われましたでしょうか?素晴らしい活動家でいらしたご両親も嘗ては忙しく過ごされ、思い切り甘えられなかった幼い日々を、これからは、ご両親のお膝元でゆっくりと甘えてください。

心からご冥福の祈りを込めて。                合掌

早すぎる旅立ち

                                   荒木瑩子

おさいふ ありがとうございました。

早速使っています。本当に良く出来てますね。

小柄なのに たっぷり入るし、手ざわりも

あっという間に なじんでしまいました。

何よりも、こんなに長い間 私のこと

覚えていて下さった 荒木さんの やさしさに

感激です。

それに レニングラードでも

お世話のなりっぱなしでしたね。

これは、なんとしても 復讐せねばと 

思ってます。それで その一弾として

プラハで買い求めた グラス・セットお送り

します。お気に召せば、こちらも、

ちょっとは いい気持ちになれます。

私は また今日(23日)出発です。

では、どこかで お目にかかれるのを

この上なく 楽しみにしてます。

早々            

1986.8.23     米原万里

荒木瑩子様

PS:最近の拙著同封いたします。    (文字間空白も原文のまま)

去る29日、佐賀の仕事から帰途に就いたとき、訃報は同行した通訳たちの間を飛び交い、いずれも、大きなショックは抑え切れるものではなかった。

 帰宅後、万里さんの本に触れたくて、何気なく、最初に手に取ったのが『マイナス50℃の世界―寒極の生活』と言う小学生向きの本であった。

そろりと、開き、懐かしいまま、当て所なくページをパラパラめくっている内、最後の見開きに何か挟んである?開いて見たのが、インターホテル・パノラマ・プラハの便箋に走り書きした彼女からの手紙だった。

20年もの間、密やかにこの日を待っていたのか!悲しみが、どっと溢れて字が見えなくなり、息を詰めて堪え、再び読み返す。

通訳の時も添乗の場合でも一緒になることの少ない、お互いすれ違いの仲間であったが、偶然、某市議員団などの随行で一緒になり、ラトビアの夜、久しぶりだからと明け方3時過ぎまで話し込んでしまった。

 話は、仕事、家庭、幼時に至り20歳ばかり離れている私に「お母さんみたいな感じ…」などとつぶやいたりした彼女は、私の持っていた「くのや」の財布(がま口風ながら、底にファスナー付き)を見つけ、いたく気に入った様子なので「見つけたら送ってあげるわね」と約束してから、何年か後に送った物への、如何にも彼女らしい復讐であった。

その後、彼女は同時通訳から作家へと鮮やかに転向し、多忙を極めながらも、その才能はエッセイストとして日を追う毎に高まっている昨近、病を得てからも、筆は落ちず、『ヒトのオスは飼わないの?』や辛口ながら笑わせる『必笑小咄のテクニック』などを上梓し、私たちを少し、安堵させてくれたばかりだったのに、やはりこれも急ぐ旅路への準備だったのかも知れない。

新聞によると、余りにも早やすぎる旅立ちに、米原フアンの学生たちは、涙を流しながら「ロシア語がんばります」と誓ったと言う。

彼女の作品『ロシアは今日も荒れ模様』ではないが、関係者の多くは、暫く、心の支えを失い、途方に暮れるのではないだろうか?

何時の日か、仲間と集い彼女から復讐を受けた、繊細にして美しいワイングラスで、思い出を語りながら飲み交わし、天国の彼女に献杯したいと願っている。

清水史子

米原さん

あなたにこう呼びかけた記憶はありません。実際に仕事でも3回ほどニアミス的な場面しかありませんでした。ただ私はあなたを尊敬しておりましたし、なぜだか年賀状のやり取りは続いていて、母上の死去とか、愛犬、愛猫の死とかは、わかっていました。でもご病気とは知りませんでした。

皆様の追悼文を読んで、いかに米原さんが皆様に頼りにされ、愛されたかを、深く深く理解できました。名前だけの協会会員である私が、この文章を書くのもおこがましいのですが、お別れが言いたくて、メールをしたためます。三年前に親友のロシア語通訳である福原(佐藤)容子がやはり癌で52歳で亡くなりました。福原さんと米原さんはタイプはまったく違いますが女性通訳ではある時期両雄だったと思います。もしもあの世というものがあるのならば、お二人で丁々発止とやっていただきたいと思います。

七月七日の会には欠席させていただきます。実は非常に親しくしているまたまた同じ年代の女性歌手が五月末に脳出血で福島で倒れ、入院していたのが七日に東京に戻ってきます。米原さんなら、多分生きていて、苦しんでいる人の面倒を見なさいと言ってくださると思います。米原さん色々間接的ですが教えていただき有難うございました。


デザイン&入力:Ryuichi Shimizu /Yoshiko Iwaya/Yumi Kusuyama /Hiroshi Hamasaki/Kayoko Ikeda/Takumi Kohei/Yui Kuwahara/Chihiro Fujishima■監修:Hiroshi Dewa

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