Мы все птенцы гнезда
Мари-сан
(私たちは万里さんの巣から育った子供たち)
柴田友子
万里さんの言葉選びの感覚は独特だった。繊細さと野蛮さがいりまじった、刷り込みの段階で微妙にボタンが半分掛け間違ったような不思議な風合いをもっていた。
彼女は、あいだの言葉をおとしても全体の筋をちゃんと追っていける、意味をかたまりでとっていける数少ない正統派同時通訳者のひとりだった。オリジナルにぴったりついて、はいってくる言葉を順番にはきだしていく同時通訳の概念とは明らかに違う流れなのだ。だからウィークポイントはスピードで、ふつうの話し方もゆっくりと考えながら大きな目で相手をじっとみながら話すタイプの万里さんは、あるスピードを超えると「これはむりよ。」と真剣に怒っていた。「通訳は自分が理解できないものは伝えられない」という信念の人だったから、自分さえわかればいいような内容を猛スピードで述べるスピーカーには本当に真剣に怒っていた。「そんなに速くてはわかりません。」と会場でどなったこともあった。それは、できないことへの言い訳なのではなく、通常の速さなら全部わかるはずだという強烈な自信と通訳し伝えることへの責任感なのだった。
「もうちょっとまちなさいよ。まてばわかるんだから。」と同時通訳のブースで私はよくいわれていた。記憶が消えてしまうのを恐れるあまり訳しはじめるのが早いのだ。
とにかくひとつはほめることを基本姿勢としていた万里さんは、私には「あなたは声がすばらしいわ。鈴をふるような声ね。」とくりかえしくりかえしほめてくれた。他には何もほめようがない頃から、私はずいぶん万里さんに組んでもらい、仕事をしてきた。
万里さんの初代ねこたち無理と道理(ムリとドリ)は、御殿場の経団連のゲストハウスで会議の通訳をしたとき拾ったのだ。つれてかえるという万里さんに、私は彼女のきまぐれだと思い眉をひそめた。「だいじょうぶよ、私ちいさいころねこは飼っていたの」と彼女は平気だった。その後堰を切ったように、東海村の原子力研究所で拾った犬の「げん」、モスクワの市場で買ってきたロシアねこのソーニャとターニャと、万里さんの家はあっという間に犬やねこでいっぱいになった。万里さんのねこたちは、書き損じの紙がたくさん捨ててある大きなごみ箱でねていて、夕方5時に一斉にごはんをたべていた。
物を書き始めた万里さんは、いつも締め切りに追われていた。会議のコーヒーブレイクに書いていたこともあった。首を痛めてまるい輪をはめてうめきながら仕事にきたこともあった。それでも彼女の切り替えのすごさと並はずれた集中力は、ブースにはいったとたん、「それがどうしたの」といわんばかりにそんなものすべてを消し去っていた。
晩年のお母様を、家に残しておけない事情があって、万里さんはブースにまでつれてきたことがあった。「まりさん、もうかえりましょう」「だめなの、私はここで働かなくてはならないの。そばにいて、みまもっていてね」「まりさん、このご本をもってかえりましょう」「だめなのよ、お母さん。それは私のじゃないの。もってかえると、どろぼうになってしまうの」というやさしくもおだやかな母娘の会話のあと、猛烈に通訳する私たちをお母様は「そうねえ、ほんとにそうねえ」とうなずきながら見守っていたのだ。
誰をも魅了する、とろけるような笑顔、明晰な思考、怒りに燃える目とほとばしる感情、わがままな聖女のような万里さんはいつも華やかで一生懸命で、すぐそばにいるのに手の届かない存在だった。でも、今のロシア語通訳者の仲間達の多くは確かに「万里さんの巣から育った子どもたち」なのである。
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