(敬称略、投稿順)

野口福美、馬場通、柴田友子、西和子
河島みどり、大西誠、矢崎紀子、
木村すなこ、菅野哲夫、

「大輪の薔薇」

野口福美

万里さん、あなたの訃報は私にとって大変な衝撃でした。あなたが病魔と闘っておられる事は知っていても、あなたが亡くなるなんて、私には信じられない事でした。週刊誌に載るあなたの闘病記を読んでは病気が深刻であることを感じ、心配は募っていましたが、いつも自信にあふれ、咲き誇る大輪の薔薇のようなあなたならば、病気にも果敢に闘いを挑み、必ずや打ち勝つであろうと私は思っていたのです。

あなたが病魔に打ち勝つ時まで続けようと、多くの仲間たちの励ましの気持ちを託してお見舞いに折々の花を4月から贈り始め、5月は薔薇の花を、次はヒマワリをと先のことまで考えていた私でした。そしてあの日、ユリさんから電話を頂いて、5月22日に贈ったバラの花束が、万里さんが一番好きな花であり、最後に見た花になったと聞いた時、なぜあなたが若くして逝かねばならないのか、理不尽に思え、無念で、驚きと相まって体に震えがきました。

初めて会った時のあなたのにこやかな笑顔をまだ覚えています。お母様のお言葉に甘えて、モスクワからの帰国直後に米原家に数ヶ月居候させていただくことになった私を、まだ高校生だったあなたが西馬込の駅まで迎えに来てくださったのでした。その後、ペレストロイカが始まった頃、長いブランクがあるにもかかわらず通訳をしたいと言い出した私の背中をあなたは強く押してくれました。何回か通訳の現場をあなたと共にさせて頂く中で、厳しい批判も、身にあまるお褒めの言葉も頂きました。そのどれもが私には忘れられない励みであり、次への弾みとなるものでした。

ロシア語通訳の最前線を走り、リードしてきた万里さん、あなたのロシア語通訳の仲間たちと私達の協会に対する思い入れは強いものでしたね。エッセイスト、作家として大成されてからもあなたの協会への思いにはあふれるものがありました。協会の新しい事務所を探して一緒に高田馬場を歩き回りましたね。あなたはリュックを背負ってウォーキングシューズでした。(そう言えばあの時高田馬場の駅前でおすしをご馳走になりましたね。美味しかった。ご馳走様でした。)締め切りに追われて時間も無かったでしょうに、あなたはその後も一人で神楽坂の不動産屋さんを回わり、インターネットで物件を探し、今の茅場町の事務所を探し出してくださったのでした。こうして思い出してみるとあなたは協会のことになるといつも一所懸命で、「野蛮なエネルギー」を大いに発揮してくれていたのですね。「野蛮なエネルギー」― この言葉は、2003年に短期間で強引に準備を進め、代々木のオリンピック記念青少年センターでシンポジウムを開催した時にあなたが褒め言葉として私達に贈ってくださり、その後私達の中では協会のことなら損得抜きで、困難な事に進んで取り組む人への最大の賛辞として使われています。

昨秋の協会創立25周年シンポジウムで、唇を白くしながらも最後まで司会・座長をやり終え、パーティでもにこやかに談話していたあなたが、実は解熱剤で熱を押さえていたと私が知ったのは後のことでした。あの時、途中でパーティ会場を目立たないように去って行ったあなたの姿が目に浮かんできます。・・・・・・ その後あなたに会えたのは亡くなられた後でした。万里さん、有難う。多くの事を与えてくださって本当に有難うございました。あなたとの思い出はあなたの著作と同じく私達の中に長く生き続けることでしょう。

梅雨の今、濡れて咲いている大輪の白アジサイに、闘い終えて永久の眠りにつかれたあなたの面影が重なります。細面となったあなたのお顔はお母様に似て、尊厳を湛えて美しかった。心からご冥福をお祈り申し上げます。


馬場 通

大昔、神田に在った現代ロシア語社というちっぽけな会社に立ち寄っては戸辺又方さんや匹田先生などと雑談をしていた時期が私にはありました。

そこで未だうら若いと言える米原さんを二度三度見かけて少しは話をしたものでしたが、あれから米原さんはまっしぐらに前へ前へと進んでいって、私などは遠くからその活躍ぶりを眺め、作品となった何冊かの本を読んでは、うなったり“ウーム、先を越されたわい”などと思ったりしていたものでした。

「米原さん、仮に貴方の三倍も長く生きたとしても、貴方が成し遂げたような活動を成就できる人はまれでしょう」この言葉を私はささげたいです。

Мы все птенцы гнезда Мари-сан

(私たちは万里さんの巣から育った子供たち)

柴田友子

万里さんの言葉選びの感覚は独特だった。繊細さと野蛮さがいりまじった、刷り込みの段階で微妙にボタンが半分掛け間違ったような不思議な風合いをもっていた。

彼女は、あいだの言葉をおとしても全体の筋をちゃんと追っていける、意味をかたまりでとっていける数少ない正統派同時通訳者のひとりだった。オリジナルにぴったりついて、はいってくる言葉を順番にはきだしていく同時通訳の概念とは明らかに違う流れなのだ。だからウィークポイントはスピードで、ふつうの話し方もゆっくりと考えながら大きな目で相手をじっとみながら話すタイプの万里さんは、あるスピードを超えると「これはむりよ。」と真剣に怒っていた。「通訳は自分が理解できないものは伝えられない」という信念の人だったから、自分さえわかればいいような内容を猛スピードで述べるスピーカーには本当に真剣に怒っていた。「そんなに速くてはわかりません。」と会場でどなったこともあった。それは、できないことへの言い訳なのではなく、通常の速さなら全部わかるはずだという強烈な自信と通訳し伝えることへの責任感なのだった。

「もうちょっとまちなさいよ。まてばわかるんだから。」と同時通訳のブースで私はよくいわれていた。記憶が消えてしまうのを恐れるあまり訳しはじめるのが早いのだ。

とにかくひとつはほめることを基本姿勢としていた万里さんは、私には「あなたは声がすばらしいわ。鈴をふるような声ね。」とくりかえしくりかえしほめてくれた。他には何もほめようがない頃から、私はずいぶん万里さんに組んでもらい、仕事をしてきた。

万里さんの初代ねこたち無理と道理(ムリとドリ)は、御殿場の経団連のゲストハウスで会議の通訳をしたとき拾ったのだ。つれてかえるという万里さんに、私は彼女のきまぐれだと思い眉をひそめた。「だいじょうぶよ、私ちいさいころねこは飼っていたの」と彼女は平気だった。その後堰を切ったように、東海村の原子力研究所で拾った犬の「げん」、モスクワの市場で買ってきたロシアねこのソーニャとターニャと、万里さんの家はあっという間に犬やねこでいっぱいになった。万里さんのねこたちは、書き損じの紙がたくさん捨ててある大きなごみ箱でねていて、夕方5時に一斉にごはんをたべていた。

物を書き始めた万里さんは、いつも締め切りに追われていた。会議のコーヒーブレイクに書いていたこともあった。首を痛めてまるい輪をはめてうめきながら仕事にきたこともあった。それでも彼女の切り替えのすごさと並はずれた集中力は、ブースにはいったとたん、「それがどうしたの」といわんばかりにそんなものすべてを消し去っていた。

晩年のお母様を、家に残しておけない事情があって、万里さんはブースにまでつれてきたことがあった。「まりさん、もうかえりましょう」「だめなの、私はここで働かなくてはならないの。そばにいて、みまもっていてね」「まりさん、このご本をもってかえりましょう」「だめなのよ、お母さん。それは私のじゃないの。もってかえると、どろぼうになってしまうの」というやさしくもおだやかな母娘の会話のあと、猛烈に通訳する私たちをお母様は「そうねえ、ほんとにそうねえ」とうなずきながら見守っていたのだ。

誰をも魅了する、とろけるような笑顔、明晰な思考、怒りに燃える目とほとばしる感情、わがままな聖女のような万里さんはいつも華やかで一生懸命で、すぐそばにいるのに手の届かない存在だった。でも、今のロシア語通訳者の仲間達の多くは確かに「万里さんの巣から育った子どもたち」なのである。


万里さんと『金魚』

西 和子

12月に絵葉書をいただいた。マティスの『金魚』の便箋に書いた手紙への、返信。明るい情景のこの絵が、20年も飼っていた金魚の死を思い出させてしまった、と知った。

「ごめんなさい!」思わず涙した。それを察してか、「とっても好きな絵だけどね。」と結んであった。

裏面は大観の『海』。
その絵は、嵐の指宿で見た波高く暗澹たる海を連想させ、心が千々に乱れた。
                                               2006年6月15日


河島みどり

彼女には私の本が出るたびに励ましと感想(ほめてくれた)をいただき、どんなにうれしかったか・・・見巧者を失った演技者のような索漠とした思いです。

愛知淑徳大学 大西 誠

この度は、残念という気持ちや悔しいと言う気持ちが複雑にからみ合って何ともやり切れません。

マリさんとは、会の初期のころからご一緒して、徳永さんと渋谷で明け方まで焼き鳥屋で話をしたり、NHKの仕事でモスクワでの「日本週間」のシンポジウムで同通をお願いしたりしたことが思いだされます。その時、ご一緒だった上智の森さんも亡くなられ、同世代がいなくなるのは、いたたまれない気持ちにさせられます。どうということのない日常に、急に涙が出てきたりしています。

元気な姿が一番だとつくづく感じます。どうぞ、みなさまによろしく。


矢崎紀子

もう20年も前になりますが、中学生新聞で米原万里さんのインタビュー記事を目にしたときから、なぜか人生の節目節目で米原さんに遭遇していました。

直接の知り合いでもないのに、亡くなられたと聞いて自分の中の非常に大切な部分をなくしてしまったような喪失感を感じています。同じような思いを抱いている方も多いのではないでしょうか


木村 すなこ

米原さんの機智に富んだ文章に時に大笑いし、時に涙し、そして何よりも励まされてきました。次はどんなご本を?と楽しみにしていました。3月鎌倉の文学館をイタリアから一時帰国した友人たちと訪れた際米原さんの写真を眼にし、お元気になられる事を願っていました。私の周囲にはロシアにかかわりがないけど米原さんの愛読者が沢山います。皆さん死去の報に衝撃を受け、一様に「惜しい方を失った」と口にされます。

地方に住む友人は朗読会を行っています。その会で6月に米原さんの本を取り上げる予定だと伝えていました。友人の一人に「生前の父がプラハ滞在中の米原さん姉妹にお人形を持って行った話をよくしていた」人もいます。その友達も社会主義時代のプラハを2回訪れ、『嘘つきアーニャ・・』に感銘を受けています。


万里さんの「まなこ」

菅野哲夫

万里さんは、単なる「め」でも、また「目「でも「眼」でもない大きな「まなこ」の持ち主でした。代表団や会議の席でご一緒させて戴いたり、また、講演をお願いしたり、メールのやりとりでお世話になったのですが、万里さんの「まなこ」は、今でも鮮烈に焼きついたままです。

万里さんの「まなこ」は、時として、女帝の「まなこ」になりました。だから、日露の首脳と言えども、万里さんの通訳には無条件で従いましたし、また、アメリカ代表団を率いる屈強な露英の通訳者も、「万里の露日通訳が終わったら、あなた、露英の通訳をするように」との命令を受けて、何の疑念も持たずに従ったのです。

万里さんは、子供の無邪気さを秘めた「まなこ」の持ち主でもありました。同時通訳という神経をすり減らす仕事から解放されると、進んで洒落や駄洒落の世界を楽しまれました。海外代表団が現地で解散して、帰国をご一緒させて戴いたときなど、未だ、文学賞受賞前の万里さんでありましたから、こちらも気楽で、お互い俳句・短歌もどきを作っては、けなし合ったものでした。

万里さんは、終世変らぬ「慈母のまなこ」の持ち主でした。捨て猫や捨て犬の話になると、「まなこ」が一層大きくなり、その輝きは増しました。「凍て土に 我待つ猫の ほそめして」という私の句を送ったことがあるのですが、とうとう万里さんの評を聞けずに、お別れしてしまいました。

私の家の玄関を入ると棚があって、万里さんの色紙が飾ってあります。キエフにご一緒させていただいたときの句を表装して、送ってくれたものです。

    マロニエの 木漏れ日遊ぶ 石畳

万里さんの大きな「まなこ」が木漏れ日と一緒に遊んでいる。私には、そう思える思い出の記念色紙となってしましました。

心から、万里さんのご冥福をお祈り申し上げます。


デザイン&入力:Ryuichi Shimizu /Yoshiko Iwaya/Yumi Kusuyama /Hiroshi Hamasaki/Kayoko Ikeda/Takumi Kohei/Yui Kuwahara/Chihiro Fujishima■監修:Hiroshi Dewa

Since 12/07/2003 (C)copyright Ассоциация ПереводчиковРусистов. All rights reserved