「言えなかったお礼」
北川和美
米原さんとの初めての出会いは1990年8月。1年半のロシア留学から帰ったばかりの札幌で、大学卒業後の進路を模索していた時期に、地元新聞社主催の軍事シンポジウムの同時通訳者とし来札した彼女と、アテンドとして一緒に仕事をした。
第一印象は、才色兼備、おしゃれ、何にもとらわれない自由な雰囲気、そして当時の(今でも、なのだが)私にとっては大人の女性の象徴だった香水。「青を身につけると飛行機が落っこちないっていうから」と全身青ずくめの衣装で現れた。意外に迷信深いところのある人だったのだ。通訳者になる決意をまだ固めていなかった私だったが、この時の米原さんの仕事ぶりに大いに刺激を受けた。とにかく格好良く、おまけに不思議なオーラを放っていた。自由のオーラだったのだろうか?
それから一年後の91年12月、なぜか米原さんの馬込のお宅で一週間ほど丁稚奉公する、という貴重な体験をした。札幌で駆け出しの通訳者となっていた私のために、「第一線で活躍する通訳者の仕事ぶりに学べ」と、師匠の大島剛さんが頼んでくれたのだ。今から思えば、頼んでくれた大島さんも押しかけた私も、かなり、いやものすごく厚かましい。だが、米原さんはそんな私をいやな顔一つせず迎え、知的支援の講義や文学シンポジウム、テレビ生放送の国際関係シンポジウム、ホテルでの要人インタビュー、テレビ局の報道現場など、様々な通訳業務に同行させてくれた。吉岡ゆきさんの同通を初めて聞いたのもこの時で、お二人のタイプは違えど正確な通訳に「これがプロというものか」とカルチャーショックを受けた。
今、自分が当時の米原さんの年齢に近付いてみて改めて、彼女の懐の深さを思う。今の私にあの時の彼女のような、通訳者としての力量がないのは仕方ないとして、せめて、後輩に手を差し伸べる人間的な器が備わっているだろうか、と。
あの一週間で米原さんから教わったことは数知れないが、最も印象に残っているのが「通訳者は月に十日間くらい仕事を受けて、のこりはそのための準備にあてるのが理想」という一言だ。難解な専門用語も天賦の才で軽々と訳しているように見える彼女だが、本番のために、その二倍の時間をかけて準備する努力の人だった。その後の講演やエッセイで、米原さんが、プラハのソビエト学校時代に言葉や文化の壁を苦労して乗り越えたこと、帰国後、今度は帰国子女として日本で再びそうした壁にぶつかったこと、また、帰国以来常に日本語コンプレックスを抱いてきたことなどを知った。天才バイリンガル少女が何の苦もなく一流通訳者になったわけではなかったのだ。
もちろん、通訳の仕事以外にもいろんなことを教わった。たとえば、おしゃれのポイント。服に使われている一色を、靴やバッグやアクセサリーにもってくるのが米原流で、プラスチックのディスプレイケースにイヤリングやネックレスを整然と色分けして並べていた。その後も会うたびに「あなた、バッグの色が違うわよ」とか「今日のコーディネート完璧じゃないの」とか鋭い指摘を受けた。余りおしゃれに気を使わない私だが、褒められたときはうれしかった。「体型が変わって着られなくなったから」と、香水のにおいのぷんぷんする素敵な服ももらった。米原さんから服をもらった通訳仲間は私以外にも数多いと聞く。「死ぬまでの食事の回数は限られているのだから、まずいものは一度たりとも食べたくない」が口癖で、食に対する思い入れも強かった。
思い入れと言えば、通訳協会への思い入れは格別だった。名刺の肩書きは「ロシア語会議通訳者」ではなく「ロシア語通訳協会事務局長」で、自宅の書斎は協会発行の教材であふれ、彼女は毎日協会関係の電話の応対や教材の発送に追われていた(当時は協会事務所がなかったのだ)。おまけに会報の編集もしていて、「ちょうどいいところに来たから、あなたも何か原稿を書いて」と私も北海道の通訳者紹介の記事を書かされた。「あら、なかなかうまいじゃない。その調子でもう少し」と人を持ち上げるのが上手で、私はそれ以来人に頼まれて原稿を書くのが前ほど億劫でなくなった。のちに作家になった米原さんだが、褒め上手、のせ上手で編集者としても成功したのではないだろうか。ともあれ、協会の業務のほとんどが彼女と、当時会長だった小林満利子さんの肩にかかっていることをそのとき知り、「何かお手伝いしなければ」との思いを強くしたのだった。その後私は上京、しばらく協会事務局のお手伝いをしたが、身辺があわただしくなり足が遠のいてしまっている。天国の米原さんの「お世話になった協会に、そろそろ恩返ししてよ」との叱咤の声が聞こえてきそうだ。
それから何度も一緒に仕事をさせてもらった。そのたび、通訳能力はもとより、最近読んだ本や服装にいたるまで、舌鋒鋭く点数の辛い試験官による試験を受けているようで、彼女との仕事はドキドキしたが、楽しみでもあった。出張先では気さくにお酒の席に誘ってくれ、下ネタアネクドートをユーモアたっぷりに披露して場を盛り上げていた。
同時通訳ブースに一緒に入ったことも数度。「下手だとマイクを奪われる」との噂のある彼女だが、一度私がひどい出来だったときですら、なかなかマイクを奪ってくれなかった。隣でものすごいスピードでメモを書いて助けてくれ、それでもお手上げになるとやっと代わりに通訳してくれた。結局大部分を彼女に肩代わりさせてしまい、仕事が終わった後も情けなくて一晩中眠れず、朝方になって謝罪のファックスを送ったら、すぐに「あんな程度の失敗でくよくよしないで。私なんてもっとすごい失敗山ほどしてきたのよ。心臓に毛をもじゃもじゃに生やしてがんばりなさい!」と返事が来た。申し訳ないのと、毛むくじゃらの心臓を想像しておかしいのとで、思わず笑い泣きしてしまった。
米原さんが以前、ロシアや東欧へのツアコンをしていたときのスタイルは、「最低限のお世話はするが基本的にはツアー客の自由を尊重する」放牧型で、ファンが多く、そうした米原ファンたちと毎年年始に海外ツアーに出かける慣わしだったと聞く。人を束縛するのもされるのも嫌いな人だった。時折、もし米原さんがお母さんになっていたら、どんな子育てをしただろうと考えることがある。やっぱり放牧スタイルだろうか?
癌になられたと知ってから、病状を案じつつも連絡をためらい不義理をしているうちに訪れた、突然の別れ。今更ながら、いろいろお世話になったことへのお礼を言えなかったのが、悔やまれる。米原さん、あなたの早すぎる死にショックを受けながらも、「ほらね、人生は限られているのだから、これからは、些事にかまけず自分の納得のいく仕事をしなさいよ」と背中を押された気がして襟を正しています。本当にありがとうございました。そして、お疲れ様でした。
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