(敬称略、投稿順)

徳永晴美、名もなき一ファンの会員、北川和美、
福安佳子、村山敦子、吉田春子、三浦みどり、
真野佳名子、横山文夫、

徳永晴美

エッセイストで知られる米原万里・ロシア語通訳協会会長が5月25日、卵巣ガンで逝った。彼女から「師匠」と呼ばれた私よりも3歳若い、56歳だった。同時通訳者として活躍しながら集めた豊富な「異文化交流ネタ」を痛快なエッセーにしたためて、次々と賞を授与された。ユーモリストで、自虐自嘲を好んだ万里さんは、「通訳でお金貰って、そのとき見聞きしたのを本にしてまた貰って、一粒で二度以上おいしい」と笑っていた。

1959年から5年間、チェコスロバキアに派遣された父親のもとで在プラハ・ソビエト学校に通った彼女は、きれいに響くロシア語を身につけた。帰国後、外大から東大の大学院露語露文学修士課程を経て職探しを始めた。だが、国会議員もつとめた共産党幹部の娘。就職先は見つからず、しばらくは、帰国子女とフリーターとニートのはしり、日本とチェコとソ連のメンタリティーのハイブリッドとして漂流していた。その頃だった。廃刊寸前のロシア語学習誌の編集ボランティアとして彼女が私の仕事部屋に無料原稿の執筆を頼みに来た。20代後半の妖艶な彼女に圧倒された私は、すぐに外の喫茶店へと誘った。彼女は「えー、ここコーヒーもないの」と驚きの大声をあげたが、とにかく狭い部屋に彼女といるのは何だか危険だと感じたからなのだ。喫茶店で、「仕事が見つからないの」と話す彼女に、「じゃー通訳をやろうか」と誘った。

そう、もう25年も前のこと。会議の同時通訳をやらせてみた。が、(多くの人はもうこの話は聞き飽きたかも知れないが)数分も経たないうちに彼女は、「だめ、私やっぱり才能ない、こんなの向いてない」と叫んだ。私は、「万里ちゃん、大丈夫だよ、最初は、分かるところをゆっくり伝えるだけでいいよ」とささやいた。言われて彼女は気を取り直した。以後これまで「全部訳さなくてもいいと教わったから通訳者になった」と話していたが、私は、「なりたての最初のうちは」と言いたかっただけだ。

しかし、「情報の核」を抽出してめりはりをきかせる米原流の通訳は、我が国マスコミに重宝がられた。サハロフ、エリツィンら、来日した要人の通訳の際には私のサブを努めてもらったが、その私が朝日新聞の記者に転じたため、少なからぬ大事な仕事は万里さんに移った。日本人初の飛行士として秋山豊寛氏を宇宙に送る交渉に立ち会った私は、帰還までの通訳の仕事を万里さんにゆだねた。その人命に関わる責務の重圧をはねのけた彼女は一皮むけた。そこへクーデター未遂事件を経てのソ連崩壊、エリツィン率いる新生ロシアの出現など、歴史的な事件が起きた。多くが同時通訳者・米原万里を知ることとなった。

その彼女が「不実な美女か貞淑な醜女か」で作家デビュー。以来「下ネタ」連発の爆笑エッセーは受けた。笑い性だったが、「飼ってたウサギがすぐ死んじゃったの」と泣きながら電話をかけてくる一面もあった。捨て猫を何匹も拾った。一方、京都の割烹で「カブのスープの味薄い、許せない!」と怒鳴って主人を困惑させたことも。心の色彩陰影が幅広いひとだった。それが作品にも滲み出ている。私の大学の研究室で訃報に接した万里さんフアンの学生たちは、涙を流しながら「ロシア語がんばります」と誓ってくれた。

万里ちゃんは、よく「あらゆる職業を疑似体験できるのが通訳の役得」と話していた。本当に沢山の人生を生きて楽しんだ。短すぎるがとても幸せな人生だった、と信じたい。

名もなき一ファンの会員

全く偶然のことでしたが、突然の訃報を受けた数日後にプラハを訪れることとなりました。米原さんが少女時代を過ごされた街は、本当に美しい伸びやかな街でした。一ファンとして、一読者として、心からの哀悼の思いをこめて、プラハの写真と拙歌を捧げます。

百塔の街を歩みつ時々に浮かぶは逝きし人の面影

(写真は聖母マリア教会と、カレル橋の傍から見た対岸のプラハ城界隈)

「言えなかったお礼」

                               北川和美

米原さんとの初めての出会いは1990年8月。1年半のロシア留学から帰ったばかりの札幌で、大学卒業後の進路を模索していた時期に、地元新聞社主催の軍事シンポジウムの同時通訳者とし来札した彼女と、アテンドとして一緒に仕事をした。

第一印象は、才色兼備、おしゃれ、何にもとらわれない自由な雰囲気、そして当時の(今でも、なのだが)私にとっては大人の女性の象徴だった香水。「青を身につけると飛行機が落っこちないっていうから」と全身青ずくめの衣装で現れた。意外に迷信深いところのある人だったのだ。通訳者になる決意をまだ固めていなかった私だったが、この時の米原さんの仕事ぶりに大いに刺激を受けた。とにかく格好良く、おまけに不思議なオーラを放っていた。自由のオーラだったのだろうか?

それから一年後の91年12月、なぜか米原さんの馬込のお宅で一週間ほど丁稚奉公する、という貴重な体験をした。札幌で駆け出しの通訳者となっていた私のために、「第一線で活躍する通訳者の仕事ぶりに学べ」と、師匠の大島剛さんが頼んでくれたのだ。今から思えば、頼んでくれた大島さんも押しかけた私も、かなり、いやものすごく厚かましい。だが、米原さんはそんな私をいやな顔一つせず迎え、知的支援の講義や文学シンポジウム、テレビ生放送の国際関係シンポジウム、ホテルでの要人インタビュー、テレビ局の報道現場など、様々な通訳業務に同行させてくれた。吉岡ゆきさんの同通を初めて聞いたのもこの時で、お二人のタイプは違えど正確な通訳に「これがプロというものか」とカルチャーショックを受けた。

今、自分が当時の米原さんの年齢に近付いてみて改めて、彼女の懐の深さを思う。今の私にあの時の彼女のような、通訳者としての力量がないのは仕方ないとして、せめて、後輩に手を差し伸べる人間的な器が備わっているだろうか、と。

あの一週間で米原さんから教わったことは数知れないが、最も印象に残っているのが「通訳者は月に十日間くらい仕事を受けて、のこりはそのための準備にあてるのが理想」という一言だ。難解な専門用語も天賦の才で軽々と訳しているように見える彼女だが、本番のために、その二倍の時間をかけて準備する努力の人だった。その後の講演やエッセイで、米原さんが、プラハのソビエト学校時代に言葉や文化の壁を苦労して乗り越えたこと、帰国後、今度は帰国子女として日本で再びそうした壁にぶつかったこと、また、帰国以来常に日本語コンプレックスを抱いてきたことなどを知った。天才バイリンガル少女が何の苦もなく一流通訳者になったわけではなかったのだ。

もちろん、通訳の仕事以外にもいろんなことを教わった。たとえば、おしゃれのポイント。服に使われている一色を、靴やバッグやアクセサリーにもってくるのが米原流で、プラスチックのディスプレイケースにイヤリングやネックレスを整然と色分けして並べていた。その後も会うたびに「あなた、バッグの色が違うわよ」とか「今日のコーディネート完璧じゃないの」とか鋭い指摘を受けた。余りおしゃれに気を使わない私だが、褒められたときはうれしかった。「体型が変わって着られなくなったから」と、香水のにおいのぷんぷんする素敵な服ももらった。米原さんから服をもらった通訳仲間は私以外にも数多いと聞く。「死ぬまでの食事の回数は限られているのだから、まずいものは一度たりとも食べたくない」が口癖で、食に対する思い入れも強かった。

思い入れと言えば、通訳協会への思い入れは格別だった。名刺の肩書きは「ロシア語会議通訳者」ではなく「ロシア語通訳協会事務局長」で、自宅の書斎は協会発行の教材であふれ、彼女は毎日協会関係の電話の応対や教材の発送に追われていた(当時は協会事務所がなかったのだ)。おまけに会報の編集もしていて、「ちょうどいいところに来たから、あなたも何か原稿を書いて」と私も北海道の通訳者紹介の記事を書かされた。「あら、なかなかうまいじゃない。その調子でもう少し」と人を持ち上げるのが上手で、私はそれ以来人に頼まれて原稿を書くのが前ほど億劫でなくなった。のちに作家になった米原さんだが、褒め上手、のせ上手で編集者としても成功したのではないだろうか。ともあれ、協会の業務のほとんどが彼女と、当時会長だった小林満利子さんの肩にかかっていることをそのとき知り、「何かお手伝いしなければ」との思いを強くしたのだった。その後私は上京、しばらく協会事務局のお手伝いをしたが、身辺があわただしくなり足が遠のいてしまっている。天国の米原さんの「お世話になった協会に、そろそろ恩返ししてよ」との叱咤の声が聞こえてきそうだ。

それから何度も一緒に仕事をさせてもらった。そのたび、通訳能力はもとより、最近読んだ本や服装にいたるまで、舌鋒鋭く点数の辛い試験官による試験を受けているようで、彼女との仕事はドキドキしたが、楽しみでもあった。出張先では気さくにお酒の席に誘ってくれ、下ネタアネクドートをユーモアたっぷりに披露して場を盛り上げていた。

同時通訳ブースに一緒に入ったことも数度。「下手だとマイクを奪われる」との噂のある彼女だが、一度私がひどい出来だったときですら、なかなかマイクを奪ってくれなかった。隣でものすごいスピードでメモを書いて助けてくれ、それでもお手上げになるとやっと代わりに通訳してくれた。結局大部分を彼女に肩代わりさせてしまい、仕事が終わった後も情けなくて一晩中眠れず、朝方になって謝罪のファックスを送ったら、すぐに「あんな程度の失敗でくよくよしないで。私なんてもっとすごい失敗山ほどしてきたのよ。心臓に毛をもじゃもじゃに生やしてがんばりなさい!」と返事が来た。申し訳ないのと、毛むくじゃらの心臓を想像しておかしいのとで、思わず笑い泣きしてしまった。

米原さんが以前、ロシアや東欧へのツアコンをしていたときのスタイルは、「最低限のお世話はするが基本的にはツアー客の自由を尊重する」放牧型で、ファンが多く、そうした米原ファンたちと毎年年始に海外ツアーに出かける慣わしだったと聞く。人を束縛するのもされるのも嫌いな人だった。時折、もし米原さんがお母さんになっていたら、どんな子育てをしただろうと考えることがある。やっぱり放牧スタイルだろうか?

癌になられたと知ってから、病状を案じつつも連絡をためらい不義理をしているうちに訪れた、突然の別れ。今更ながら、いろいろお世話になったことへのお礼を言えなかったのが、悔やまれる。米原さん、あなたの早すぎる死にショックを受けながらも、「ほらね、人生は限られているのだから、これからは、些事にかまけず自分の納得のいく仕事をしなさいよ」と背中を押された気がして襟を正しています。本当にありがとうございました。そして、お疲れ様でした。

福安佳子

米原さんと初めてお会いしたのは、学生時代アルバイトをしていたNHKのロシア語講座で、ゲストとしてリハーサルにみえたスタジオだった(徳永さんが講師だった頃)。トップに結び上げた長い黒髪、膝までの革のブーツ、凛としたその姿と確実な一言一言に圧倒され、あこがれた。後に同じ「ふるさと」をもつことを直接伺い、ほこらしかった。

いつか、ここ鳥取でご講演をお願いしたい、この思いを実現できなかったことが悔やまれてならない。あまりにも早すぎるご逝去に、ふるさとの多くの人々も深く打ちのめされています。

「万里さんのことば」 

村山 敦子

米原さんがこんなに早く亡くなるなんて、何か性質の悪い冗談のように思える。本人もそう思っているに違いない。やはり若くして亡くなった高校時代の恩師の葬儀に同席したとき、「良い先生ほど早く亡くなるのよ」と、憤懣やる方ないといった口調で万里さんは言った。その次に会ったときは旧ソ連の、タシケントだったろうか。添乗員の仕事の休憩時間に、着古した服で寛いでいたら、「随分地味な格好してるのね」、とやられた。そういえば、地味な服を着た万里さんは見たことがない。一度だけ鎌倉のお宅にお邪魔して、手料理までご馳走になり、四方山話をして帰り際に「大人になると、ひととゆっくり話をする機会がなくなるものね」と言っておられたこと・・・。ロシア語通訳協会があわや解散ということになって総会が開かれたとき、米原さんの情熱に引きこまれて役員会に参加。そう、米原さんがいなかったら私は今ここにいないでしょう。

 2階に上げられて梯子を外されたような気がしないでもないけれど、落ちたバトンを手に、残された者たちは互いに励まし合いながら歩き続けるしかなさそうだ。万里さん、天国から見ていてくださいね。

「米原万里さんへの追悼文」

通信会員  吉田春子

米原さんの急逝に大きな打撃を受けた一人です。ロシア語通訳協会の通信会員にさせていただいてからまだ日も浅いので私にとっては米原会長というより、一読者として米原万里さんと呼ばせていただいたほうが親しみをおぼえます。これまで、米原さんの読者として、お書きになったものはほとんどすべて読ませていただいていて、家族の誰かが、米原さんの○○にこんなこと書いてあったよと話題を提供したり、時には議論になったり、今回のエッセイは・・・ね、といった会話が飛び交っておりました。そんな我が家でしたが、今年初めまで週刊文春の連載を見逃しておりました。最後?の回(5月18日号)は、こんな連載のストレスから離れてどうぞ少し休養をとって下さいと言いたいほど壮絶で痛々しいものでした。我が家も癌患者をかかえているため特に敏感に伝わってきたのでしょう。米原さんにはぜひ、ご本人をはじめとして生還した元癌患者たちの声を伝えていただきたかったのにと今も悔しく思います。

私にとっての米原さんはいつも手を変え品を変えロシアンワールドを変幻自在に操り提供してくれるマジックボックスでした。このロシアンワールドは、かつてロシア語を学びそれを生かせないできた私にも平等に、通訳者として内側から見た世界、ソビエト時代やロシアにかかわるさまざまな人々の生き方や苦悩、憤り、それを小咄によって笑いに変える方法やおかしさを、洗練された筆力で余すことなく見せてくれました。うんうん、そうそう、わかるわかると何度うなずいたことでしょう。引き合いに出されているロシア人がはっきりあの人だと思える箇所があり、驚いたり笑ったりもしました。米原さんの作品は自分と共通の時代背景で貫かれていましたので、とても懐かしいような故郷に帰るような気持ちで読み進んでいくことができました。個人的には、十分に療養をなされたのちに、『オリガ・モリソヴナの反語法』のような小説をもっともっと書いていただきたかったのにととても残念です。米原さんとはいつもニアミスで、昨年通訳協会のセミナーで司会をされていたのを受講者として拝見したのが最後となりました。そんな小さな接点でしたがご逝去の報を受けてショックが大きかったのは、まさに自分の生きてきた時代が突然削り取られたような気がしたからでしょうか。

米原さん、沢山の感動的なロシアンワールドをありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

三浦みどり

「あのね・・・」と胸の奥から響く万里さん独特の低音が受話器の向こうから聞こえ、こちらはぎくりとする。「あたしの電話でドキッとした?明日なんだけど 会議の同時通訳、大丈夫・・」この手のピンチヒッターをやらせていただいたおかげで ずいぶん会議の同時通訳の場を踏ませてもらい、わたしの実力以上の仕事の多くは万里さんのおかげだ。他の仲間が誘ってくれると「出来ない、そんな」といろいろ抵抗して断ってしまいずいぶん他の方には迷惑を掛けるのに、なんだか万里さんのあの声で圧されると断れない。わたしより一つ年下なのにどこか 頼りになる姉御だった。

私が憧れていた「日ソ歴史学シンポジウム」の会議通訳に初めて誘ってくれた時のこと。日本人の発言をウイスパリングでロシア語にロシア語からは逐次で日本語にする。訳している私も、誘った万里さんもはらはらし続け。やっと終わったときは子供の発表会が終わった後の母親の表情。格段の差がありながらもその後何度も一緒に仕事をさせてもらった。

なぜかわたしは万里さんが分からなくなりそうな言葉を知っていることが重なり、辞書がわりというのもおこがましいのだが、彼女が「何だっけ?」とこちらを向く瞬間に何故か必要な言葉をタイミング良くメモっていたことがあった。そういう瞬間もよどみなく訳は続いていて、耳から入り続ける情報も漏らしていない。時には訳語を見つけて欲しい単語をメモしてよこし、こちらは大特急で辞書を引いて答えれば、続けている訳文を乱すことなく、新情報を取り入れて先を続ける。「分かるところだけ訳せばいいのよ」と慰めに言ってくれても、わたしが「分かったところだけ」つなげたのでは日本語の文章にならない。集中力が明らかに裏表両方にあった。原発言を記憶するのに「動詞よ、動詞」と言っていたのを思い出す。発言の芯をつかむ動詞に注目せよということ。

作家活動開始に近くなっていた時期には 泊まりがけの会議に行ってこちらはぎりぎりまで知識の詰め込みで青くなっているのに仕事当日の朝食では、「最近、思いついたこんな話し・・・」などとエッセーの筋書きになるのかエピソードを話してくれた。こちらは緊張のまま上の空。それでいていざ仕事が始まると心臓の鼓動は何倍にも早くなると本で読んだ。万里さんはそういう密度の濃さで身体に負担を掛けていたのだろうと、今思いあたる。今回は「あのね・・・」という深い声の前置きなしにピンチヒッターにされてしまった。「大丈夫よ・・・」の声を聞きたい。

真野佳名子

米原さんと直接おめにかかっていないものでも、当地では、その晩、本を読み返しながらご逝去をいたんでいる人もおります。わたしは、そういうみんなの気持ちは体をはなれた魂の状態の米原さんにはまっすぐ届くのだろうと思っています。協会のみなさまの思いもそうでしょう。

わたしたち、協会員のみえないところでたくさん尽力なさっておられることを尊いことだと感謝しております。米原さんがそのみなさんの真ん中におられて、力をくださっていたことをおもうと、亡くなられたあとの、そのお気持ちを察するにあまりあります。

群像社の宮澤俊一氏がなくなったあとの3年間を思い出します。亡くなることは喪失ではなく、その人の志をうけた、ここの人々があらたに発見しあい、おたがいの気持ちをつなぎあうための生みの時間だったときづいたのは、さんざん涙をながしながら、会社建て直しの道を歩いたあとでした。

協会の、そしてみなさんのこれからのことを祈っております。      まの@モスクワ

横山文夫

「万里さんを送る集い」のご案内をいただきました。ありがとうございました。

この知らせをいただいて、初めて彼女が去ってしまったことを実感しています。「ねがはくは花のもとにて・・・・」という歌をふと思い出して、いま、悲しみが嫋嫋と広がってゆきます。

 それにしても、万里さんは急ぎすぎたという想いでいっぱいです。”人生は、生きた時間の長さではなく、その密度で計るべきなのよ”という、いつもの強い声が聞こえるようです。

彼女のことだから、自分の人生についても洒脱な文章をどこかに残しているかもしれないとおもいつつ。(合掌)


デザイン&入力:Ryuichi Shimizu /Yoshiko Iwaya/Yumi Kusuyama /Hiroshi Hamasaki/Kayoko Ikeda/Takumi Kohei/Yui Kuwahara/Chihiro Fujishima■監修:Hiroshi Dewa

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