ウクライナの近況
またも更新が遅れて申し訳ありません。公私両面で、なにかと、片付けなければならないことがたまってしまって・・・・・・。
その後、ご存知の通り新大統領の下で最高会議でも新しい連立が成立、ヤヌコーヴィチ氏の盟友である地域党のアザロフ氏が首相となって組閣が行われ、大統領選の第一次選挙で3位となったティギプコ氏が経済改革担当副首相に就任。過去の政治経歴中何かと汚点を指摘されている人も多く入閣しているのですが、細かいコメントは省きます。
ウクライナとロシアとの間で、天然ガスの価格を10年の期限で引き下げる代わりに黒海艦隊の基地貸与契約を25年延長する協定が結ばれた件についても、日本のマスコミで報道がありましたから、ここで詳しくは述べません。
2010年度国家予算案の承認
その直後、ガス輸入価格が決まったというので、2010年度国家予算案がやっと最高会議で承認されました。ウクライナの会計年度が始まるのは1月1日です。この予算ではGDPの5.33%にあたる赤字が見込まれており、その穴埋めはとりあえず国際通貨基金やヨーロッパ復興開発銀行などの国際機関からの融資で行うということになっています。上記協定でガス価格を抑えることに成功したため、国家予算赤字も少なくなり、国際通貨基金によって指導された範囲内に収まった、というのが協定の支持者の意見です(赤字を減らす他の方法も当然あったはずとは思うのですが)。
ガス価格の引き下げ期限が10年というのは、現行憲法の規定では大統領は2期、つまり10年以上は務められないことになっているため、ヤヌコーヴィチ氏が自らの任期中の価格安定を保証できればよいとした(あとは野となれ山となれ)という説もあります。いずれにせよ、外国の軍事基地が将来も長期にわたって存在する国に住むというのは、私として気持ちのよいものではありません。ちなみに、ロシアが払う(実際には、90年代に発生したウクライナの対ロシア債務の支払いの一部という形で相殺)黒海艦隊基地の借地料が、某誌の記事で、在日米軍の沖縄の基地の借地料と比較されていました。前者は年間1haあたり5,400ドル、後者は同じく29,500ドルだそうです。イタリアの米軍基地の借地料は119,600ドル/ha、韓国のそれは25,200ドル/haだとか。
作家サブジコ氏によるウクライナ社会の現状分析
さて昨年末、作品が欧米でも翻訳されている著名な作家オクサーナ・ザブジコ(1960年生まれ)の新作、『捨て去られた秘密の博物館』が出版され、830ページの大冊にもかかわらず初版は即売り切れたそうで、私は2月に入ってから第2版を買いました。第2次大戦中(ソ連軍とは戦後も)西ウクライナでナチス軍・ソ連軍の両者を敵に回して戦い、現在でもその是非が議論の的であるウクライナ蜂起軍を扱ったものです。
ザブジコ氏はネット上のメディアでもしばしば政治・社会に関する発言を行っており、今年の大統領選決選投票では「誰にも投票しない」(という選択肢が投票用紙にある)を選ぶ、とあらかじめ表明していましたが、3月22日付のインタヴュー(ニュースサイト『ウクライナの真実』)で、新作を語りつつウクライナ社会の現状をも分析しています。
「重要なのは、私たちに何でもしてくれる『いいツァーリ[皇帝]』を選ぶことであって、彼がやってくれないのなら、やると約束する別の『いい人』を選べばいい――というのは、ソ連時代の発想法の大衆レヴェルでの復活ですね。政治的成熟と民主主義への道のりの長さを左右するのは、社会の教育水準ですが、それが私たちの問題なのです」
「私の知っている30歳以下の人はみな、『[現在の政治家・官僚の]汚職が始まったのは、そもそもクチマ[大統領]の時代じゃない。90年代に権力の座についたクチマの世代は、ブレジネフ時代の腐敗した環境で育ち、他の行政モデルというものを一切知らなかった』と聞いて驚いています。私たちが教育を受け育ってきたソ連最後の数十年間について、ウクライナでは誰も真剣に研究していません。70年代や80年代のKGB文書が廃棄されてしまったいきさつさえ知らない人がほとんどです」
「ウクライナ社会は慢性の反動的健忘症に侵されています。その健忘症が何十年も続いた後で、情報の蔓延する現代、社会の記憶が危険なほどに短期的なものになっているわけです。今目の前でTVに映っているものだけを受け止め、その前に映っていたものはもう覚えていない。[中略]この状態を改善するには、教育や文化に頼るしかありません。時と時の関連、継続性を回復させていく、長く困難な過程です。私の小説で、TVジャーナリストのヒロインが行っていくように。他の手段は存在しません」
「90年代、ウクライナでは40人近くのジャーナリストが殺されていますが、彼らは具体的な事件を追っていたわけで、それらの事件は彼らの死後追求されないままです」
等々、興味深い発言がいろいろとありますが、ウクライナでも出版不況は深刻であり、著名作家の、フィクションとしては7年ぶりの新刊にもかかわらず、初版は1,500部だった由。ユシェンコ元大統領夫妻が後援している基金の助成があり、第2版の2万部が出、うち6,000部がすでに売れて、出版社では「第2のハリー・ポッターだ!」と狂喜している・・・というのは、ザブジコ氏のジョークかも?
『手回しオルガンのためのメロディー』上映映画館
さて、昨年末、拙稿で以前紹介したロック・バンド「侏儒ツァヘス」改め「侏儒」の新譜(『レシピ』)が発売され、私は買って一通り聴きましたが、なかなか、いいです。07年に亡くなったギタリストの代わりに、「ツァヘス」時代のベーシストがギターを弾いています。
また、ムラートヴァ監督の新作、『手回しオルガンのためのメロディー』を、私はやっと今年に入ってから観ました。今回入ったのは、キエフのメイン・ストリートに面していながら、なぜかソ連時代からの地味なつくりのままの二番館で、私は以前ヴァン・サント監督『エレファント』をここで観た覚えがあります。久々に入ってみると、座席やスクリーンはきれいになっていました。しかし、夜20:35からだったかの上映とはいえ、観客は私と友人、その斜め前に坐ったカップルの4人のみ。しかもこのカップルは、開演後1時間かそこらで出て行ってしまいました。ロシアの著名な俳優、レナータ・リトヴィーノヴァやオレーグ・タバコフが出演しており、主演の少女はモスクワの国際映画祭で主演女優賞を取っているという作品であるにもかかわらず、です。
まあ、理由は単純で、ストリート・チルドレンの実態が2時間半以上にわたって冷酷に描かれ、雪の降り続ける中の浮浪姉弟の姿がいつものムラートヴァ節は抑え気味の淡々とした画面に映り、ちょうど寒々とした戸外の天気を思い出させて、ヤダなあという気分が、徐々に観客の四肢にしみわたってきたであろうことは充分想像できます。上映の収益は、ストリート・チルドレンの社会復帰施設に寄附されるという話ですが、これではあまりもうからないのではないかと私は余計な(?)心配をしてしまいました。
ムラートヴァ監督の技法
しかし、ムラートヴァのファンとしては、こまかいところにどうしても出てきてしまうこの監督のクセ――独特の台詞回し、次々と登場する奇矯な人物、動物への偏愛などなど――に胸を躍らせ、渋滞に巻き込まれた金持ちの奥様(リトヴィーノヴァ。ある理由で妖精の扮装をしている)が、突然現れた「中国人の輿かき(棒のついた台のような形の輿で、駕籠ではない)サーヴィス」を利用、雪のそぼ降る中、貴婦人然とスーパー・マーケットの前に乗り付けるシーンでは、彼女の登場をここまで2時間待った甲斐があったものと拍手したくなりました。この映画のポスターにリトヴィーノヴァがでかでかと出ていたのは、渋い映画に少しでも観客を動員しようという意図なのでしょうが、彼女が画面に現れる時間が10分程度であることを考えると、軽い詐欺という気がしないでもありません。私の知っているキエフ駅の待合室だとか、手荷物一時預かり所などが出てくるのも、個人的にはうれしかったのですが。
チェルノブイリ被災者支援活動
さて今年の4月26日は、チェルノブイリ事故24周年の日であり、それに向けて滋賀のMさんがまたウクライナにやって来ました。今回の彼の滞在の主目的は、山口県宇部市でチェルノブイリ被災者の支援活動をしているグループ「えんどうまめ」代表のIさんの依頼で、「えんどうまめ」の支援対象である、プリピャチ市からキエフへの移住者の団体「ゼムリャキ」を日本で紹介するためのプロモーション・ヴィデオ(?)を撮影することです。
「ゼムリャキ」代表Tさんからの情報により、私宅から徒歩10分ほどのところにある通称「チェルノブイリ教会」で、事故の起こった時間(午前1時23分頃)の前後、事故の犠牲者のため追悼の祈祷が行われると聞いたMさんは、私宅に泊りがけで取材することにし、彼が一人で夜道を歩くのは危ないと思って私もついていきました。まあ、非力な私如きが一緒にいたところで、実質上身を守る助けにはならないのですが、万一何かあった時後悔しないようにと思ったわけです。
「チェルノブイリ教会」における追悼の儀式
この教会については以前も拙稿で書いたかもしれませんが、事故後初期の段階で大量の被曝をし、モスクワの病院に収容されて亡くなった消防士たちや原発職員たち(モスクワの墓地に埋葬されている)を悼む目的で90年代初めに建てられたもので、鐘をもつ記念碑が構内にあり、その周囲に、犠牲者各人の名と生年月日・死亡の日付が刻まれたプレートが配してあります。それほど大きな教会ではありません。
0:40頃私とMさんが教会の構内に入ると、すでに数十名の参列者が佇んでおり、肌寒い気候だったのでみなコートに身を包んでいました。いくつかのTV局の取材もすでに行われていました。その後始まった追悼の儀式そのものは、正教の伝統にのっとったもので、無伴奏の合唱を伴っており、私が以前ジトーミルの消防局(非常事態省ジトーミル州支局)前の記念碑での集会で見たものとかわらないだろうと思います。ただ、聖職者の唱える祈りも合唱もロシア語でしたので、この教会はモスクワ総主教の管轄下に属するものなのでしょう(モスクワからは独立した「キエフ総主教庁」を認める正教会が、ウクライナでは最大の信者数を抱えているということです)。
死者を悼む席にはウォッカ
祈祷の始まる前、Mさんは50代くらい? の男性に呼びかけられました。Mさんは5月9日、プリピャチ市とチェルノブイリ市の墓地に参る人たちのための貸切バスに乗って両市に行くことになっており、放射性物質による汚染の強い立入制限区域に入るための申請をした際、顔写真のコピーを提出していたので、申請書類の処理をしたこの男性(元チェルノブイリ原発直員、「チェルノブイリ連盟」関係者)がMさんの顔を覚えていて話しかけたのです。彼はこの追悼式の主催者であるらしく、式の最後、記念碑の鐘に結び付けられたリボンを引いて、24回鐘を鳴らしたのもこの人でした。
祈祷は記念碑の周囲で行われ、参列者はその間ろうそくを手にずっと立っていたのですが、式の終了後、記念碑のそばに立てられたろうそく台(?)にそれぞれろうそくを立て、さらに教会に入って祈る人たちもありました。教会から出てきた私たちは、先ほどの大変友好的な男性(日本に行ったことがあるとか)に見つかり、やはり教会の構内に置かれたテーブルに誘われ、ウォッカを勧められました。死者を悼むこのような集まりでは、アルコール飲料を伴う飲食をするのが当地の習慣であり、この日もその例外ではなかったわけです。Mさんと私は、1杯だけをいただいておいとましようとしたのですが、参列者用に用意されていた飲食セット(ウォッカの小瓶と黒パン、チーズ、ソーセージとトマトをパックにしたもの)を一つずつ持ち帰らされてしまいました。ウォッカの小瓶は、日本に帰ってからのお土産にちょうどよいとMさんが言うので、彼の帰国時に渡すべく、そのまま私宅の台所に預かってあります。
原発の現状、新規建設に関する世論調査
Mさんが参列者の女性にインタヴューして聞いたところでは、この教会は元原発職員などもヴォランティア的に参加して建設されたものということでした。
大統領や首相などがこの日この教会を訪れ、記念碑に献花していたこともあったと思いますが、ヤヌコーヴィチ大統領は26日にチェルノブイリ原発を訪れ、原発構内の記念碑に献花したそうです。
4月23日から25日にかけて行われた、ウクライナ全国の18歳以上1,000人を対象とする世論調査によれば、81.9%の回答者がチェルノブイリ原発の現状を危険と考えており(48.8%は「きわめて危険」、33.1%は「どちらかといえば危険」)、事故処理関連プログラムの予算は充分でないとする人が80.3%。63.1%は、原発の新規建設に反対しており、賛成者は25.4%、「(難しくて)答えられない」とした人が11.5%。使用ずみ燃料貯蔵所のウクライナ国内での建設については、85.1%が反対。
しかし、4月22日の報道を見ると、フメリニツキー原発3号炉・4号炉の新規建設に関し、ウクライナとロシアの両政府の間で合意がなされたと燃料エネルギー省副大臣が語っています。ま、今後実際どうなるかは、何ともいえませんが。
フメリニツキー州にて乗馬経験
その原発のあるフメリニツキー州に、5月1日から3日の連休中(5月1日と2日はソ連時代以来の祝日で、今年は3日と4日が代休)、友人と行ってきました。原発があるところからは100数十km離れているのですが、丘と森を背にしていくつかログ・ハウス風のコテージが並び、その前に釣り人のための池が造られています。地域のビジネスマンが、保養・遊興施設として数年前から投資をし整備しているのですが、まだ完成途上で、看板もなく、主に口コミでフメリニツキー市やキエフから休暇を過ごす人が来ているようです。
どうしてこういうところに行ったのかというと、友人がかつて田舎町で馬術を習っていた時の先生(ロシア出身の女性。40代前半くらい)が、この施設の乗馬場? に招かれて来ており、この数年乗馬の機会がなかった友人がぜひまた乗りたいというのでつきあって来たわけです。
私も、少しだけ騎乗経験をさせてもらいました・・・が、馬のやわらかいお腹を蹴るのにどうしても遠慮が出てしまい、馬になめられた(というとヘンですね。物理的に「なめられた」わけではありません。念のため。でも、「馬に馬鹿にされた」というと余計ヘン)ようで、うまくいきませんでした。何かの主人として振舞うとか、厳しく命令を下して従わせるとかいうのが、とにかくどうしても性に合わないのだということが、改めてよくわかりました。それじゃまた。
(2010年5月9日)
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