ラスキ村との行き来の生活
3月以来消息を絶って(?)しまい、申し訳ありませんでした。
ジトーミル州ナロジチ地区ラスキ村で「チェルノブイリ救援・中部」が行っているバイオガス製造装置建造工事に関連して、4月下旬から現在に至るまで、長期滞在を含めて同村への行き来が続き、落ち着いて机に向かういとまがなかったのです。
派遣団が借りていた民家(しばらく前まで老人が住んでおり、彼の亡くなった後とりあえず住む人がいない状態のようですが、娘さんらがきれいに改装しており、壁紙やカーテンはしゃれたものがついている)には、小型のガスボイラーもあったのですが、まだまだ寒かった4月から5月にかけて、我々は家の中心部に作り付けられているペチカで薪を焚き暖をとっていました。水道はなく、庭に井戸がありますが、水位が高いせいか水質はあまりよくありません。少し離れたところに、より深い掘り抜き井戸からポンプで汲み出す水の流れている水道があり、そこからまた手押しポンプで取水するようになっています。家の中にバス・ルームはなく、庭で見つけたドラム缶に入れた水をやはり薪で沸かし、その湯で体を洗う生活でした。
ラスキ村の現在
この村はチェルノブイリ汚染地域の分類でいうところの第3ゾーン(保障付任意移住区域)にあるのですが、人口600人程度、主な産業といえばソ連時代のコルホーズ、現在は私営の農業企業体が存在するのみ。その従業員は現在30人ほどの由。見たところ、ソ連崩壊後、旧コルホーズの建物や機器のすべてはそのまま老朽化するに任されているとしか思えません。もっとも、それはチェルノブイリ事故による汚染のせいというよりも、ウクライナ全土の農村に共通する条件(農業生産の経済的破綻と国の無策)によるところが大きいのではないかと想像します。
その他の施設としては、学校、文化会館、准医師・助産婦駐在所、村議会、郵便局、教会、店3軒があるくらいです。
ナロジチ地区復興プロジェクト
そこでおそらく史上初めてまとまった期間平和裡に滞在する外国人である我々は、ナタネ栽培による土壌浄化とバイオエネルギーの生産に基づくナロジチ地区復興プロジェクトの一環として、村議会の建物から道を隔てたところにある農業企業体の地所に、小型の半地下式バイオガス製造装置を造っていたのですが、Mさんには別途の課題として、ナロジチ地区内の住民の生活の実情調査及び我々のプロジェクトに関する意識調査? を行うということもあり、彼は必要に応じて建設現場の手伝いをしつつ、村民へのインタヴューに携わって、近隣の村にも出かけたり、ラスキ村でたまたま行われていた結婚式の取材をしたりなど忙しくしていました。
私は私で、建設資材の仕入れや現場での作業の手伝い、我々の受け入れをしている農業企業体長との連絡などでバタバタしていました。
復興プロジェクトにおける交流
食事を1日1度まとめて持ってきてくれる近所の主婦のお宅には、一夜私を除く3人がお邪魔して自家醸造のウォッカをふるまわれ、彼女のお連れ合いと腕相撲をするなどの楽しい交流があったそうです。私は度数の強い飲み物を避けたい気持ちもあってご一緒しませんでしたが。
この方が提供される自家製のパン・牛乳・サワークリームを含む食事については大変好評でしたが、Hさんは日本から味噌を持参していて、時折味噌汁を作り、こちらで購入した長粒米を炊き、我々は米飯をやはりHさん持参の振りかけや塩昆布などとともに食しました。塩昆布などというものの存在は、私としてはずいぶん久し振りに思い出したのですが。「塩こんぶ長のおすすめ」という惹句と、その「ぶ長」らしき人物のイラストが包装についた大阪のメーカーの製品です。
バイオガス製造装置の建造
肝心のバイオガス製造装置の建造に関しては、必要な木材を農業企業体の敷地内にある製材場で自分たちが作り、コンクリートはやはり現場で自分たちがミキサーを操作して練るという、現代の日本の建設現場に比べると数段能率の悪い条件下で派遣団の専門家たちが健闘し、最寄りの町オヴルチ(これも第3ゾーン内)で購入した各種の機材もいろいろと使い勝手の悪いものが多かったようです。これまで建設現場のお手伝いをしたことのなかった私には判断の難しいことですが。
今回の装置は、すでに日本でも使用されているタイプの、コンクリートを用いて発酵槽等を造るものですが、かつてコルホーズで用いられていた農業機械の燃料保存タンクが建設現場近くに多く放置されており、Hさんによればそれらも充分利用できるとのこと。原料の有機物は、牛馬や豚のフンや穀物の藁など現地にふんだんにあり、ガスの生産に伴って生じる廃液は良質の液肥としても利用できるということです。
牧歌的環境の中で電線の盗難
工事のかたわらで牛は草を食み、熊蜂は羽音をたてて飛び回り、樹々は新緑を日一日と広げ、夕べには池でカエルが鳴き、カラスの群れがねぐらへ帰り、夜が更ければそこいらの樹上でナイチンゲールが歌い、ハリネズミがごそごそと動き回っているという環境の中で、ラスキ村から15分ほど歩いたところを通っているナロジチ−オヴルチ街道では、道沿いの電線が数kmにわたって一夜のうちに盗まれるという事件がありました。金属スクラップとして売られるのでしょう。食料を自給し、馬車をも現役の交通手段として用いる村人たちの生活は、現金収入がごく限られていることの反映でもあります。
村内の娯楽施設といえば、文化会館2階の図書室(20:00まで開いている由)と、金・土曜に同会館1階で催されるディスコ(アルコールは出ない)だけですが、私はどちらも見ていません。
突然の嵐・雹
キエフでの用事もいくつかあったので、私はキエフとラスキ村の間を何度か行き来したのですが、6月7日午後、私がキエフから乗ったバスの中では、初めひたすら蒸し暑く(冷房はついておらず、窓からは強い陽射しが容赦なく照りつけ、開くのは天井に近い小窓? のみ)、そのうち窓ガラスに頭を繰り返しぶつけながら私は寝入ってしまい、ふと気がつくと雨が小窓から吹き込んでいて、あわてて閉めることになりました。
後で聞いたところではおそらくその頃、ラスキ村の作業現場で突然の嵐と雹に襲われたHさんは、機材を救おうとずぶ濡れになりつつ走り回っており、そのさなか近場の木がまるごと倒れてしまうという危険にさらされていました。キエフでもたまに雹が降ることはあるのですが、この時Hさんが見舞われたのは直径1cmもあろうかという大粒のものだった由。
木が倒れるというのは、もちろんそれほどの強風が吹きつけたということなのですが、作業現場付近では少し土を掘ればすぐ砂地になってしまい、木の根が深く張っていかないというのも原因のひとつのようです。
総じてこの間、雨が降ったり止んだりの不安定な天候が続いており、Hさんらの野外での仕事は目処がつきにくくお気の毒でした。
工事一段落後の現場の様子
6月10日、工事が一段落して派遣団が日本に帰り、いったんキエフに引き揚げた私は、6月22日から7月1日までまた同村で過ごし(週末キエフに戻りましたが)、作業の続きを「救援・中部」と提携しているジトーミル農業・生態学大学の学生たちに手伝ってもらってやってきました。
すでに地下に埋められた発酵槽内部のモルタル塗り・分離壁作りなど、外からの見た目には大して面白みのない作業過程だったせいか、Hさんたちが働いていた時にはほぼ毎日のように様子を見に来ていた村の子どもたちも、ほとんど来なくなりました。大人は時々ひやかしにやって来てましたが。
Hさんらの滞在時には、放牧されている牛たちが作業現場に近づき、深緑色のフンをところかまわずどさどさと落としていくのが問題だったのですが、6月下旬になると、牛の放牧場所が変わったのか、見かけるのは馬や羊ばかりになり、羊は警戒心が強いようで現場からはだいぶ距離をとっていたのに対し、馬は逆に平気でずんずん接近してくるので時に困りました。
気温はだいぶ上がり、4月から数えればおそらくこれまでの半生で最も長時間戸外で働いた私は、しっかり日焼けしました。発酵槽の中はサウナ状態で、学生たちは汗だくになり、帰宅すると井戸の水を浴びて汗を流していました。馬たちの中には、暑さに耐えかねてか、水たまりに寝転がって体を湿らせているのもいました。
私たちの泊まっていた家の庭では雑草が猛然と生い茂り、大家が鎌で(西洋の死神が人の命を刈り取るため手にしているような、半月形の大きな鎌)定期的にそれを刈り取っていました。蚊や蝿もそれなりにしっかりと発生していましたが、5月頃よく耳にしていた近くの池のカエルの声はなぜか聞こえなくなりました。宿泊していた家と作業現場の間で見えるのは、主に村人が自家用の作物を栽培している畑で、元コルホーズの農業企業体がそれなりの規模で栽培を行っているはずの耕地は村の別の区画にあるらしく、その様子は目にする機会がありませんでした。
政局の動き・景気の行方
この間、首相の支持母体である「ティモシェンコ・ブロック」と野党第1党の「地域党」が団結して大統領の権限を削減する憲法改正案を提出しようとする動きがあったのですが、土壇場でこの2勢力の協力は成立しませんでした。「地域党」党首のヤヌコーヴィチ氏が、「ティモシェンコ・ブロック」との妥協なしでも大統領選に勝てると判断したため……との見方もありますが。
1ドル=7.5グリヴナ程度でいったん下げ止まりになっていたグリヴナの対ドルレートは、また小刻みな上下の変化を始め、それなりに落ち着きそうだった不況も秋には再度深刻さを加えそうだとの予測もマスコミではなされています。
数百万人規模といわれるロシアやEUのウクライナ人出稼ぎ労働者(不法就労を含む)の多くは、帰国予定を当分延期せざるを得ないだろう、という報道もありました。
観たい映画・映画の印象
少しでも明るいニュースと言えば、私の偏愛するキーラ・ムラートヴァ監督の新作『手回しオルガンのためのメロディー』で主役を演じた12歳の少女が、モスクワ国際映画祭で主演女優賞を得た、というものくらいで、早いとここの映画を映画館で観たいものと私は期待しています。「手回しオルガン」と仮に訳した楽器は、シューベルト『冬の旅』の最終曲で「辻音楽師」が回しているアレ(ひと昔前には「手風琴」と訳されていた)と同じものだろうと思いますが、映画そのものを観てみないとちゃんとしたことは言えません。
ちなみに、私が今のところ最後に(キエフの)映画館で観た映画は、クリント・イーストウッド監督の『グラン・トリノ』で、彼の作品としていつものことながらよくできた映画だとは思うものの、アメリカのヴェトナム系移民コミュニティとイーストウッド演じるところの主人公との関係は、やはりなにか「いい子の白人」という視点から描かれているという気がしてしまい、太平洋戦争時の硫黄島での戦いを題材とした同監督の『父親たちの星条旗』に関して、黒人監督スパイク・リーからの批判があったという話を思い出します。ソ連時代東南アジアで仕事をしたことがあるというキエフのお医者さんから、「失礼だが、あなたは日本人というよりもヴェトナムかラオス系の顔立ちに見える」と言われたことがあり、そのせいの感情移入もあるのかもしれませんが……。
待望の完熟トマト
直接関係ありませんが、最近、最寄りの地下鉄駅そばに並ぶ屋台のひとつで、待望の露地完熟トマトを今年初めて買ったところ(1kg8グリヴナ)、「(しっかり食べて)ウクライナで太っていってちょうだいよ!」と屋台のおばさんに言われました。こういうお愛想? を言われたのはキエフでも初めてで、夏服の薄着(というか、上半身はポロシャツ1枚)だった私がいつにもましてスリムに見えたのかもしれません。ラスキ村での肉体労働の後で、腕の筋肉は私として記録的に付いているという気は……するのですが。ま、甘いものが好きではなく、基本的に間食をせず、胃腸がそれほど丈夫ではない私なので、太るというのはそうたやすい課題ではありません。トマトを食べて太れるかどうかというのも、多分に疑問ではあります(笑)。
思い出すこと
また関係なく思い出しましたが、20年以上前、中国からチベット・ネパール・インドへと旅した(日本人の)友人が、「上海にはあんたのような顔の人がたくさんいる」という絵葉書を旅先からくれたことがありました。私自身は中国に一度も行ったことがないので、想像つきません。私の先祖はどういうとこから来てるんでしょうね。母方の祖母は瀬戸内海の島の出身なので、それなりに、いろんな可能性はあるのかもしれないですが、ちゃんと調べたわけではないのでわかりません。
ラスキ村の印象
7月1日、ラスキ村での仕事をまた一段落させて、オヴルチに行くバス(1日3本)を待っていたら(キエフへの直行便はないので)、自転車でぶらぶらと初老の男性がやってきて、バス停のベンチに私と並んで坐り、「バスを待ってるのかい。ここはどうだね」と聞かれたので、「静かで落ち着くところだ」と答えたところ、「自分はかつてイタリアや中国、シンガポールにも行ったことがあるが、ここは確かに自然が豊かでいいところだ。ウクライナでも、ドネツクやマリウーポリなどの工業地帯では、煤煙が洗濯物に付くほど大気が汚染されている。しかしここは空気がよい。チェルノブイリがなかったらもっとよかったのだが」と話してくれました。
そのうちバスが来てしまったので、どういう経緯で彼が外国に行ったのかは聞きそびれましたが。彼の年齢から考えて、ソ連崩壊後の出稼ぎではないのじゃないかと思います。チェルノブイリ原発職員の町だったプリピャチから事故後キエフに移住した人に、80年代、ソ連からのクルーズ観光で日本各地に行ったことがある、という話を聞いたこともありますけれど。
今夏の予定
さて私は、「チェルノブイリ救援・中部」の招聘で何ヶ所かで講演をする、ジトーミル農業・生態学大学のディードゥフ准教授の通訳として、7月30日から8月9日まで日本国内をあちこちする予定です。講演は名古屋、長野県伊那市、京都、大阪府熊取市の4ヶ所。そのあと、国内での用事をすませたり、旧友たちと会ったりしてから、8月24日の独立記念日にウクライナに戻ります。それじゃまた。(2009年7月12日)
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