No.42
竹内高明(キエフ在住)

夏の始まりの自然の彩によせる思い

またもご無沙汰してしまい、どうもすみません。

「チェルノブイリ救援・中部」の仕事で、伊那市のHさんが、519日から62日までの2週間ジトーミル州ナロジチ地区に滞在、「救援・中部」の汚染地でのナタネ栽培プロジェクトの映像記録を撮り続けている滋賀県のMさんがそれに同行し、私は途中で一度キエフに戻りましたが、その前後は彼らに付き添って通訳をしました。

仕事そのものについてはあれこれ面倒なこともあったのですが、この季節、3人が泊まっていたナロジチ町の外れの送電会社の寮のあたりでは、朝からずっと各種の鳥のさえずりがやまず、夜にもナイチンゲールかと思われる声が聞こえていました。

Mさんがウクライナに来る前に立ち寄ったロシアで買ってきた放射線検知器の示す数字では、日本での平均的放射線値の34倍を示す場所もあるのですが、ひたすらなだらかな地形の中で拡がる畑、森、牧草地、その中を曲がりくねりながら流れる川は、夏の始まりの自然の彩をそのまま視界に惜しみなく振り撒いていくばかりでした。

ナロジチ地区の人々とのふれあい

土日など仕事が途切れた折、HさんやMさんは地区内の探索行? に出かけ、子どもや動物とふれあい(「おカネちょうだい」とせびる、就学前と思われる3人組の子どもたちもいたということで、私はその画像をMさんのノートパソコンで見せられましたが)、また大人と子どもを含む聾唖の人たちが共同生活している家でお茶をよばれてきたそうです。

共産主義者を自称するおじさんから、レーニンやマルクス・エンゲルスの話を吹っ掛けられたり、カフェの従業員の子どもにインタヴューして、女優になりたいという夢を語ってもらったり、一人暮らしの足の悪いおばあさんの、輝くばかりに美しく整頓された住まいに招き入れられたりもしたとのこと。

Hさんは牧草地に放牧されている牛や馬、放し飼いのアヒルの親子、犬、畑の作物などの写真を撮って楽しんでいたようですが、実際、私も61日の日曜に2人と少しだけ歩いたあたりの人々の暮らしは、いかにも自然の営みの延長として築かれたものという印象を与えるものでした。そうであるがゆえに、原発事故の影響をもまたそのまま無防備に被ってしまった、ということになるのかもしれません。

ジトーミル市に通じる舗装された自動車道路を、お下げを垂らし自転車に乗った女の子が、たった一人ひたすらまっすぐ走っていく姿も見かけました。キエフから車でナロジチに向かった夕方には、雲を浮かべまだ薄明るい空の下で、初夏の長い日没に森の端が樹々を透かして赤く染まるのを見ました。私が今住んでいるキエフのアパートの窓は、前に書いたかもしれませんが、北と東に向いているので、そういう光景を見るのはずいぶん久し振りでした。

夏目漱石についてのOさんの卒業論文

 そのナロジチ地区に、2年前までキエフ大学で日本語をちょっと教えたOさんの卒業論文を持っていくはめになったのですが……卒論というのは必ずしも厳密な言い方ではなく、現在のウクライナの大学は、ソ連時代の5年制大学から、欧米の大学の制度に適合するように改革されつつあり、4年卒業時点で「学士号」が授与されることになって、5年生では「専門家(スペシャリスト)」のコースと「マギストル(学士と修士の中間的なもの?)」のコースに分かれます。

Oさんは6月にマギストルのコースを終えるところだったのですが、以前の私の同僚で、優秀な通訳でもあるウクライナ人のZさんがOさんのマギストル論文担当教官であり、論文のテーマが「夏目漱石の小説の主題と文体の特徴について」というものなので、形式として外部の人間に書いてもらう必要のある論文の評を、その昔日本大使館で開かれていた日本語教師会で漱石の話をしたことのある私に依頼した……という経緯がありました。

文献目録を含めて74ページのウクライナ語論文で、やたらに仕事の忙しいこの時期にそういう依頼を受けるのは、無謀であったとしか言いようがないのですが、この種の依頼をされるとつい虚栄心を刺激されてしまうというのが私の至らないところです。

夏目漱石作品のウクライナ語訳

夏目漱石作品のウクライナ語訳は、現在のところ『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』、『こころ』の3作品しかないようです。私はいずれも見ていません。ロシア語訳には、この3作に加え、『三四郎』『それから』『門』の「3部作」があるようですが。

送電会社の寮の台所のテーブルに論文を置いて、苦沙弥先生とその妻君の問答(妻君の頭の真ん中に大きな禿がある、という発見から始まるくだり)の引用をウクライナ語で読む、というのも、不思議な気持ちを呼び起こすものでした。

環境と存在とのズレ

Hさんは日本のコメや韓国の海苔、即席みそ汁やインスタント・ラーメン、梅干などを遠路持参しており、それらを地元の食材と合わせての食事、またMさんが携帯電話の回線とノートパソコンを用いてインターネットと接続、skypeで日本と通話する(私がしたわけではありません)という環境が存在したのも、窓の外で赤いプラトークをつけた老婦人が放し飼いのニワトリをかまっているという情景とのズレを感じさせましたが、そういうことをいえば、私自身のこの国での存在がすでにある種のズレであるわけでしょう。

 しかしそもそも、原発と放射性物質と牛馬アヒルや人々というものの間に、そういうズレがないといえるのでしょうか? ズレにおかまいなく同居するもろもろのモノ、というのが、「現代日本の開化」で漱石の語った、工業化社会の発展状況の一面なのじゃないでしょうか?

マンガ『夕凪の街 桜の国』

 5月に恒例の甲状腺検診団とウクライナを訪れた、広島県府中市の「ジュノーの会」のKさんは、彼の私淑した山代巴氏編集の資料が用いられているということもあって、『夕凪の街 桜の国』というマンガをキエフに持参、甲状腺検診の通訳のバイトをした日本語科の学生たちにプレゼントし、私にもくれました。

昨年、奈良県東吉野村の旧友M君宅に泊まった折、お連れ合いが出してくれて読んだ本の中にあったものなので、偶然の符合にちょっと驚きましたが、こういう作品が「出来事」の60年以上後に描かれるということは、何か人間に対する希望を持たせてくれるような気がします(関係ありませんが、Oさんの論文を読むので調べ物をした際、漱石の妻君が1963年まで存命だったのを知り、一瞬意外な気がしました。しかしよく考えると、漱石自身、年齢だけで言えば、十五年戦争を生き延びていてもおかしくなかったわけです)

過去そのものを変えることができないとしても、それに対して新しい光を当てることができ、それと同時に新しい将来を照射することができるのだとすれば……。そういうこととは別に、岡山市出身の私として、岡山弁に相当近い広島弁が「正しく」使われているマンガを読むのも楽しいことでした。

二つの映画

627日〜73日には、「チェルノブイリ救援・中部」の企画したスタディ・ツアーの通訳として、ジトーミル市とコーラステン市、ナロジチ地区、チェルノブイリ原発とプリピャチ市に行ってきました。そこでひと息つきたいところですが、「救援・中部」のナタネプロジェクト関連の仕事はこれから8月末までにヤマ場をいくつか抱えており、気が抜けません。

気の抜けない中で、私は2度続けて久し振りに映画に行きましたが、いずれもソ連時代からある古い『10月』映画館での上映でした。最初は、論文の評を書いてくれたお礼というのでOさんが誘ってくれた、マルレーネ・ディートリッヒ特集のうちの『異国の出来事』(ビリー・ワイルダー監督、1948)2度目は、ウクライナ日本センターの日本語専門家Mさんが招待状を用意してくれた、日本映画祭初日の『父と暮せば』。

前者は第2次大戦後間もない占領下のベルリンを舞台にしたシリアスなコメディで、ロシア語吹き替えが英語(とドイツ語)の科白にかぶさるDVD画像の上映。飛行機上からベルリンを俯瞰した映像が冒頭にあり、激しい地上戦の後でほとんど建物の壁だけが立っている景色が延々と広がるようすはなかなかに衝撃的でしたが、占領下ドイツの風俗(闇市や占領軍相手の売春など)の辛辣な描写は、旧オーストリア・ハンガリー帝国の生まれでベルリンに住んだこともあり、ドイツ側の視線とアメリカ側の視線の切り替えがきくワイルダー監督の面目躍如というべきでしょう。

後者はロシア語字幕つきの上映で、上記の『夕凪の街 桜の国』を再読したばかりの私はけっこう面白く観ましたが、上映前の馬渕日本大使のウクライナ語によるかなり長い挨拶も拍手で迎えられていました。大使は就任後ずっとウクライナ語を勉強していたらしく、この秋で3年の任期が終わるところですが、公式のスピーチはできるだけウクライナ語で行う努力をしているようです。

チェルノブイリ市消防署員の余暇

 チェルノブイリ原発とチェルノブイリ市、プリピャチ市に行ったのは630日で、私がこの立入制限区域を訪れるのは、2001年の中国新聞のTさんの取材から数えて5回目だと思います。今回の原発行きに関して、私として取り立てて新たな発見や感慨はありませんでしたが、28日土曜が憲法記念日だったため30日は代休、原発の構内にはほとんど人気(ひとけ)がありませんでした。

原発からは1618km離れているチェルノブイリ市の消防署(厳密には、非常事態省支部)の署長は、1986年当時ジトーミル州消防局局長だったC(現在は、「救援・中部」が支援している「チェルノブイリの消防士たち」基金の代表)の部下だったそうで、自ら立入制限区域内のガイドを務めてくれましたが、彼のおかげで、同消防署の裏手にある動物園? も見学することができました。

この消防署の職員は、チェルノブイリ市内で立入制限区域の管理や区域内での科学研究に携る他の人たちと同様、半月ゾーン内に滞在し勤務、残る半月を休みとして与えられゾーン外の自宅で過ごすのですが、家族から離れて暮らす無聊を慰めるため、動物の世話をして余暇を送るのだという説明でした。

《動物園》の餌の味見

しかしそこには、ゾーン内で捕えられたイノシシ、バンビと名付けられた小鹿、チャボ・七面鳥・ウズラ・ニワトリ・ガチョウ・ライチョウ、キツネやアライグマ、馬(は放牧中で不在でしたが)などがおり、なかなか見ごたえのあるコレクションでした。

その動物たちを眺めていると、実際、消防士たちの決して気楽とはいえないであろう日常が逆に感じられてくるのでしたが、署長手ずから黒パンをちぎってイノシシに与えようとしたところ、餌が満ち足りていたのか、巨体のイノシシはあまり関心を示さず、スタディ・ツアーの参加者の一人が味見してよいかと尋ね、肯定の返答を得てかけらをかじったところ美味しいというので、われもわれもと皆がつまみ食いをした結果、パンが丸ごとなくなってしまったのは、いささか恥ずかしい事態でした。しかし、「外部」の我々が訪れると訪れないとにかかわらず、ゾーン内で勤務の日常が続いており、また原発での廃炉作業に関する被曝労働も続いているということは、私にとっては、何度もそこに出かけて初めて少しずつ実感されてくる事実なのかもしれません。

民俗音楽祭『夢の(くに)

621日には、以前にも書いた民俗音楽祭『夢の(くに)』で、上記の日本語講師Mさんらの指導による阿波踊りその他の盆踊りが披露されたのですが、主に日本語学習者の若い人たちが練習を積み、浴衣を着て、アフリカの某国からやってきた「世界盆踊り連合」(略称「世盆連」。Mさんもその一員である「世界的」組織だそうですが、メンバーは確か5名とのこと)の方(日本人。元某建設会社の技術者で、現在はJICAのコンサルタント。日本の援助で建てられた施設のその後のモニタリングなどが任務とのこと)の太鼓に合わせて踊ったんだそうです。私はなにせ忙しかったので、見に行けなかったのですが、その様子はキエフ在住の日本人Yさんが働いたお好み焼きの出店とあわせてTVのニュースで紹介されていました。

私の両親が40年ほど前から住んでいる岡山市の一地域には、八朔踊りという無形文化財の踊りが伝承されており、私も子どもの頃には踊ったのですが、振り付けが相当複雑なもので、今やほぼ完全に忘れてしまいました。それでも、太鼓のリズムとリフレインの掛け声は覚えてますが。Mさんによれば、練習の甲斐あって、阿波踊りはそれなりに成功したということです。キエフに果たして盆踊りは定着するのでしょうか。岡山市津島西坂で、あのややこしい八朔踊りはまだ伝承されているのでしょうか。ともあれ、昨年同様、8月中に私は一時帰国し、実家にも顔を出してくるつもりです。

キエフ市長選の結果

 さて、525日に行われたキエフ市長選ですが、結局前職のチェルノヴェツキイ氏が再当選、各党派によって選挙運動にふんだんにばらまかれた資金は何のためだったのか、という虚しさが残されています。同時に行われた市議選でも、最多議席数を獲得したのは、やはりチェルノヴェツキイ氏の派閥。

一方、最高会議では、連立内閣与党から2議員が離脱、与党所属の議員数がちょうど半数になってしまうという事態が発生し、最大野党の「地域党」が内閣不信任決議案を提出。しかし同案は、残る野党の共産党及び元最高会議議長リトヴィン氏の率いる「リトヴィン・ブロック」の支持を得られず、ティモシェンコ内閣はからくも存続を維持。

年頭からの半年で15%を超えるインフレにより見直しを迫られる国家予算の改正案は、内閣案と大統領案の2案が審議されたものの、いずれもやはり可決されないまま議会は夏休みに入ってしまいました。そして30℃を超える暑さが始まり、ナロジチ地区では秋播きナタネの収穫が終わったところです。それじゃまた。(2008年714)


デザイン&入力:Ryuichi Shimizu /Yoshiko Iwaya/Yumi Kusuyama /Hiroshi Hamasaki/Kayoko Ikeda/Takumi Kohei/Yui Kuwahara/Chihiro Fujishima■監修:Hiroshi Dewa

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