22年前の事故の日を思う
4月、いっとき気温が上がって、外を歩くと汗ばむくらいになりかけたのですが、やがて雨がちの天気が続き、確か23日には日中の気温が5℃でした。傘をさして歩きながら冷たい風に吹かれ、なんだかみじめな気分になったものです。しかし26日土曜にはまた気温が上がり、好天でした。
この日キエフ市の東北、プリピャチからの移住者が多く住むデスニャンスキー地区でチェルノブイリ記念碑の除幕式があり、私は知己の移住者たちに声をかけられて参列しましたが、事故後22年、あの年と同じように4月26日が土曜日にあたるのはこれが初めてとのこと。「あの日もこんなふうに、いやもっと暑かった」と皆語り合っていました。
チェルノブイリ事故の新しい記念碑
チェルノブイリ関連の記念碑は、キエフ市内にすでに2つだかあるはずですが、今回新たに造られた記念碑というのは、プロメテウスをかたどったという金色の像が、黒鉛や燃料棒のかけらを表すらしい幾何学的な形状の御影石のかたまりにつきささるように立っているもの。まわりには樹々が植えられており、将来さらに周辺の整備は進んで、礼拝堂もできるとかいう話でした。
地区行政長や地区議会の誰か、事故処理作業者の団体代表の挨拶があり、合唱隊を伴う正教の追悼のお勤めと記念碑のお浄め(聖水を大きな刷毛様のものでふりかける)があった後、自身も事故処理作業者(兵役中に徴集されて現地に入り、その後肉腫を患って化学療法を受けた)という神父のお言葉がありました。
事故の犠牲者追悼のため建てられた礼拝堂・教会
今年の26日は正教の復活祭前日。25日にはジトーミル州の汚染地域にあるナロジチ地区を大統領が訪れる予定があり、それにあわせてナロジチ町の公園に礼拝堂が建てられ、竣工式への大統領の出席が待たれていたのですが、この予定はキャンセルされたとのこと。ちなみに、私が今住んでいる集合住宅から歩いて行ける距離のところにも、チェルノブイリ事故後犠牲者追悼のために建てられたという小さな教会があり、そのそばでは、事故直後に亡くなった原発職員や、消火活動にあたって亡くなった消防士らの名を刻んだプレートが、塚の周囲にはめこまれています。
しかし、こういう記念碑だとか、礼拝堂だとかいうものは、ほんとうに人の心を鎮め、思いをはせるよすがになるものなのでしょうか?
悲劇の記念日のコンサート
同じ4月26日の夜には、キエフのフィルハーモニー・ホールで、ロマン・コフマン指揮キエフ室内管弦楽団のコンサートがあり、前半はバッハの管弦楽組曲第3番のアリアとグバイドゥーリナ「キリストの7つの言葉」、後半はショスタコーヴィチの前奏曲とフーガニ短調(バルシャイ編曲)の後メシアン「神の顕現の3つの小典礼」で、最後の曲はコフマンの娘マリアンナ・サブリナ指導の児童合唱団「シェドルィク[ウクライナで古来大晦日と正月に歌われる歌の繰り返し部分を指す、と辞書にあります]」がフランス語の歌唱で参加。プログラムには「チェルノブイリの悲劇の記念日4月26日」とあり、最終曲については「メシアン生誕100周年記念」と記されていました(これを書くので、ちょっと調べてみたところ、メシアンの生まれた日は12月10日、命日は16年前の4月27日です)。
グバイドゥーリナの作品に対する聴衆の反応
前半の主曲目であるグバイドゥーリナの作品(1982年作曲)は、まさに「苦難」がテーマと思われる聴きごたえのある作品でしたが、聴衆の反応は正直というか今ひとつでした。緊張が続かない、という空気が肌に伝わってきます。演奏後の拍手も、独奏を受け持つチェリストとバヤーン奏者の力演にささげられたものという感じで、時々思うことですが、20世紀の「現代音楽」(ショスタコーヴィチは例外)に対するここの聴衆の冷淡さはわりと露骨です。いつだったか、確かリアナ・イサカゼがベルクのヴァイオリン協奏曲を弾いた時にも、もっと拍手が盛り上がってほしいと私は勝手に不満を持ったのを覚えています。
……と書いてから思い出しましたが、2005年4月に同じフィルハーモニーの大ホールで、私はやはり「キリストの7つの言葉」を聴いており、その時は聴衆の反応ももっとよかったような記憶があります。チェルニゴフ州のシンフォニー・オーケストラの演奏、指揮はその常任指揮者であるスーカチ氏でした。
聴きやすい曲に惜しみない拍手
しかし、演奏の出来具合というよりは、聴衆の心がまえ(?)の問題だろうと思います。
3年前の演奏は、ピアソラの「バンドネオンとオーケストラのための協奏曲」とセットのプログラムで、あらかじめ「現代音楽」の愛好者にはっきり的を絞ったコンサートだったからです。それに、「現代音楽」のCDが自由に入手できる環境ではなく、一般の音楽愛好者にとって例えばグバイドゥーリナを聞く可能性は、こういう稀な実演の席くらいでしょうから、「好きでないなら来るな」というわけにもいきません。
……さて、合唱とピアノ、シンセサイザー、チェレスタ、弦楽オーケストラのためのメシアンの曲(1944年)には、惜しみない拍手が贈られていました。まあ、どっちかというと、聴きやすいんですよね(特にグバイドゥーリナの後では)。合唱団の女の子たちもかわいいし。ひょっとすると、合唱団の父兄とか関係者が、連れ立って来ていた可能性もあるでしょう。しかし、「苦難」の後の昇華としてとらえるには、ちょっと軽かったか…という気がしたのは、ないものねだりということかも。
〈チェルノブイリ〉にマッチする楽曲
「チェルノブイリ」そのものをテーマとした楽曲があるのかどうかは、正確には知りませんが、私は聞いたことがありません(ロックとかは別として)。しかし、古典的な宗教音楽よりも、グバイドゥーリナのような非伝統的音楽言語を用いた表現の方が、チェルノブイリの「パット剥ギトッテシマッタ アトノ世界」には合っているように思います。
キエフ市長選及びキエフ市議会選を間近に控えて
さて、最高会議によって任期終了前に施行を決定されたキエフ市長選及びキエフ市議会選の日(5月の最終日曜、「キエフの日」の祭日)は近づいており、街中でビラや新聞を撒く運動員(たいていはアルバイトの学生っぽい若者)やポスターが目立つものの、政策的争点はなんら明確でなく、いわゆる民主陣営(「我らのウクライナ+国民自衛」と「ユーリヤ・ティモシェンコ・ブロック」)の統一候補は結局あらわれず、世論調査によれば現市長チェルノヴェツキイ氏が最有力との結果が出ています。
ちなみに立候補者は150人を超えたとかいう記事をどこかで見た気がしますが、数字の記憶が大変悪い私のことなので、間違っているかもしれません。しかし、市内の某私立大学で日本語を教えているウクライナ人講師のFさんと、4月半ばに用事で話した折、彼女から、その大学の学長も出馬するつもりらしいと聞きました。
キエフの大学の実情
私の聞いている限り、キエフの大学というのは公立・私立を問わずいずこも相当非民主的というか、学生の出席を厳しくチェックするなど小学校かと錯覚するようなところがあり、一方で成績や卒業証書を教師への賄賂で買うという腐敗の構造が往々にして存在するのですが(それとは別に、地下鉄の車内や街角で、卒論やレポートの代筆業の広告ビラが貼られているのもよく見かけます)、Fさんの大学では、教師が1分でも遅刻すると月給を3割だか差し引かれるという信じられない規則があるとのこと。「組合はないんですか」と聞くと、ないとのお答え。
食品価格急騰の原因
そのうち、話題は昨今のインフレに移りましたが、実際、このところの食品価格の高騰は、驚くべきものがあります。わが友G君の予測は遺憾ながら外れてしまいました(その後私はやたらと忙しく、彼も忙しいようで連絡がありません)。
国の予算補正案は未だに提出さえされておらず、ドル・レートは1ドル=4.8グリヴナ程度まで下落。某週刊誌の記事によると、過去1年半でジャガイモの値段は平均105.7%、小麦粉の値段は77.1%、ヒマワリ油102.3%、鶏肉33.0%、リンゴにいたっては222.0%の上昇です。
2004年から2007年までの間、選挙のたびに政治家たちが最低賃金の値上げを公約・実行し続けた結果、実質賃金額が87%増大したのに対し、実質国内総生産額は33%しか伸びていないということから引き出される当然の帰結、というのが各種マスコミの分析です。
インフレに拍車をかける多くの要因
以前にも書きましたが、要するに、国内の生産部門への健全な設備投資がなされず、不動産へのバブル的投資、ヤミ経済のモノやカネの動きが盛んという傾向がやまないものと思われます。数百万人にのぼるという外国への出稼ぎウクライナ人からの送金も、消費に充てられるものが大半でしょう。それに加えて、ここ数年外資の参入が著しい諸銀行による個人対象ローンの融資総額も急速に増えている由。
その広告も地下鉄車内でよく見かけます。「足りないなら借りて、今すぐ手に入れよう!」というような、あまりにもストレートというか能天気な惹句が多く、実際、借りたはいいが途中で返せなくなるケースも多いようです。これもインフレに拍車をかける要因の一つでしょう。
ティモシェンコ首相は、大手チェーンのスーパー数社と面談、基本的食材各種について一定の利益率制限を設ける協定をまとめましたが、市場経済を阻害する姑息な手段として非難を浴びています。私もこのところ、生鮮野菜はハツカダイコンとジャガイモ、ネギくらいしか買ってません。それじゃまた。
(2008年5月3日)
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