夏野菜の値下がりを待つ
お元気でしょうか。キエフではその後、6月下旬頃まで、かなり暑い日が続いていたのですが、7月に入ってからだいぶ涼しくなるとともに、毎日のように驟雨があり、おかしな天気でした。9日頃からやっとまた夏らしい日和になってきましたが・・・。
夏野菜はやっと値が下がり始め、今ではキュウリが2.5グリヴナ/kg、トマトが5グリヴナ/kgなど。私が毎年旬の野菜に手を出さず、じっと待っている理由がおわかりいただけると思います。しかし、新ジャガはやはり品薄らしく、未だに5グリヴナ/kg程度です。
空港の滑走路を車で疾走
6月中旬の非常に暑かった時期、ある企業の方々が空港ターミナルの建設、黒海沿岸都市の橋梁建設などの案件に関する協議でウクライナを訪問され、私はその通訳をさせていただきました。
前者について空港関係者の人たちと面談があった際には、空港敷地内を案内され、飛行機の発着がない時間をみはからって滑走路を車で疾走するという、なかなかできない(まあ、そもそも、そういうことをしようという発想自体、頭に浮かんだことはなかったわけですが)経験をさせてもらいました。
後者の件に関して現地を訪れた折には、飛行機でオデッサまで行き2泊したのですが、オデッサではただホテルで寝ただけ、自動車で2時間ほどかかる往復、現地の視察、市行政の関係者との話し合いで時間は消えてしまいました。
私の泊まったホテルは、海のすぐそばにあり、朝7時過ぎに出発する際そちらに視線を投げると、砂浜にはすでに水着姿で横たわる人たちの姿が見られました。たぶん、日中の一番暑い時刻には、ホテルで冷たいものでも飲んだり、昼寝をしたりなどするのでしょう。
汚職、密輸がはびこるオデッサ
オデッサ市内を車で走りながら、まだ若い(20代後半くらい?)運転手氏と雑談したところ、この町では(でも?)汚職がはびこっており、港の税関の役人はみないい車に乗っている、ということでした。
某週刊誌の最近の記事によると、ウクライナに持ち込まれる密輸品の6〜7割はオデッサ等の港を経由しており、その内容は食品(トルコ産の果実など)・衣類・電化製品・麻薬などだそうです。
この時はまだ、戦艦ポチョムキンの反乱を記念するソ連時代の大きな記念碑が街中にありましたが、そのしばらく後、撤去されたというニュースがTVで流れていました。
交通事故の現場に遭遇して
オデッサの街をまだ出ないうちに、はねられたばかりとおぼしい老婦人の遺体が路上に倒れており、血潮がアスファルトを染めていましたが、日本企業の方々は、ウクライナ滞在の最初の3日間で3件の交通事故の現場に遭遇した(他の2件は、車同士の衝突事故)というので、いささかショックを受けておられました。
私の住んでいるアパートのすぐそばでも、この5年間に少なくとも2件の事故があり、1件は交差点での衝突事故。もう1件は、歩道の街路樹に乗用車が激突した(理由は知りませんが)もので、その後新たに植えられた樹の根方には、造花の花輪がしばりつけられ、ときおり新しいものに代えられています。亡くなった運転手(あるいは乗客)の遺族が供えているのでしょう。
オデッサでも増える交通量
近年、キエフの交通量が目立って増えたということは、以前から繰り返してウクライナを訪れている日本の方がみな気づかれることですが、オデッサでも事情は同じで、朝晩の渋滞は日常化している由、やはり運転手氏から聞きました。
一般的に言って、ウクライナの人の運転が荒っぽい(運転マナーが悪い)というのも、日本の方からよく聞く指摘ですが、自分自身運転の経験がない私はコメントを控えておきます。
映画のシーンの路面電車の路線を目撃
それとは全然関係ありませんが、今回のごく短いオデッサ滞在での私にとっての収穫は、キーラ・ムラートヴァ監督の『調律師』(2004年)に出てくるあの路面電車の路線と思われるものを目撃したことです。まあ、だからどうなんだ、と言われれば、それまでですが。
(ついでに書くと、同監督の新作『2つで1つ』の一般公開は、9月に延期になったとのこと。この作品は、2つの短めの映画をセットにしたもので、『2 in 1』と訳した方がいいかもしれません。その1つである『男について』のシナリオは、『調律師』の画面で超ヘンな魅力を全開させているレナータ・リトヴィーノヴァが書いており、それを含むリトヴィーノヴァの文集『所有と従属』の方が先に書店に並んでしまいました。タイトルになっている『所有と従属』は、ヴァレーリイ・トドロフスキイ監督、チュルパン・ハマートヴァとディーナ・コルズン出演の『聾者の国』[1998年]の原作になった中篇?小説です。)
ウクライナ一の著名人を目の当たりにして
目撃といえば、昨年結成20周年の記念ディスクを出したロック・バンド「ヴィドプリャソウの絶叫」のヴォーカル、オレーク・スクリプカが主催者となって2004年に始めた国際民俗音楽祭『夢の郷(くに)』は、その後毎年7月に開かれており、私は8日夕刻、会場になっているドニエプル河沿いの公園で、若い友人たちとベラルーシのエスノ・バンドなどの演奏を楽しみました。
この公園の敷地内では、音楽祭の期間中、民芸品の販売店舗が道の両脇にならんでおり、その一つの前で人だかりが生じていて、多くの人がカメラを取り出していることから、誰か著名人がいるのだろうとは思いましたが、友人Y君にいざなわれて接近してみると、人垣のすきまから一瞬見えたのは、大統領ユシェンコ氏の姿でした。夫人同伴だったそうですが、彼女は私の視野に入りませんでした。
ユシェンコ氏が自国の民芸品を好み、蒐集しているというのは周知の事実で、養蜂の趣味があるという話もよくジョークの種になります。2005年夏の訪日に際しても、日本の養蜂事情を知りたいとの希望でわざわざ養蜂家を訪ねたと聞いています。
それはともかく、ウクライナでこれ以上の著名人もいないのではというべき著名人を目の当たりにしても、私は格別うれしくなるわけではありません。カメラは、いずれにせよ、持参していませんでしたし・・・。とっさに頭に浮かんだのは、「TVで見るのとおんなじ」という、幼稚園児のような感想でした。
プリピャチという街
それとは逆に、だいぶ前に1度お会いしたことのあるS君が、9日夜のTVニュースの画面に登場していましたが、彼の背後に広がっていたのは、私も何度か足を踏み入れたプリピャチの街の風景でした。
彼を初めとする、元プリピャチの住民である若い人たちが、マスクをつけ、放射線測定器を片手に、年間数千人に及ぶというチェルノブイリ原発周辺立入制限区域の訪問者たち(主に外国人)が残していくゴミを片付けるヴォランティア活動を行っていることについての報道でしたが、彼らがプリピャチの街自体を博物館として保存することを国際的に訴えているという言及もありました。その件は、チェルノブイリ20周年の昨年頃から、S君らの編集しているサイトhttp://pripyat.com/でもアピールされていたと思います。
ニュースの中では、S君の仲間の青年(やはり子ども時代にプリピャチから移住した人)が、「この街は死んだ街だって言われてるけど、そうじゃない・・・眠りについた街なんです。ただ、その眠りから覚めることはないわけだけど」と語っていました。
『チェルノブイリの祈り』の増補新版
そして、ある書店の棚、リトヴィーノヴァの本からあまり離れていないところに、私はモスクワの出版社が出した『チェルノブイリの祈り』の増補新版を見つけ、私のふところ具合からするとけっこう高価ではあったのですが、今買っておかないとまたどこで見つけられるかわからないと思い、購入しました。
裏表紙には、私が2003年に日本で通訳をさせていただいたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ氏の小さな写真があり、2006年、おそらくチェルノブイリ20周年にあわせて出版されたと思われるこの増補版が、なぜ今キエフの書店で最近の新刊書と並んでいるのかはよくわかりません。まだぱらぱらと見ただけですが、巻頭に近い『筆者の自問自答』の部分にだいぶ手が加えられており、日本での講演でも語られた内容が多く含まれています。
8月、また日本に帰省するので、かばんの中に入れておき、飛行機や鈍行列車の中でじっくり読もうかと思っています。
ベルイマン・フェスティヴァルが開催されて
あと、6月に市内の映画館「キエフ」3階のシネマテークでベルイマン・フェスティヴァルというのがあり、同監督の代表作9本が日替りで毎晩上映されました。
ちょうど仕事が忙しい時期で、観られないものとあきらめていたのですが、好評のため会期延長という標示があり、私は喜び勇んでチケットを購入しました。1本につき25グリヴナでした。
私が観たのは『叫びとささやき』(1972年)と『ペルソナ』(1966年)の2本だけですが、前者は80年代初めに東京の名画座で観た、私にとって最初のベルイマン映画です。
ちなみに、私の手許には、1985年にモスクワのラドゥガ(虹)社が出した『ベルイマンによるベルイマン』があり、1968年から69年にかけて行われたきわめて興味深い長時間インタヴューの記録を含むものです。
このラドゥガ社は、続けて『トリュフォーによるトリュフォー』(1987年)、『フェリーニによるフェリーニ』(1988年)などを出しており、いずれも映画マニアにはこたえられない充実した内容としゃれた装丁の本で、私は愛読しています。
シネマテークで過ごす「闇の中の夢のとき」
さて、シネマテークの場内に初めて入ってみると、私が買った4列目の席(チケットは全席指定)は、失敗だったことが判明しました。というのは、前から8列目くらいまでは、床が平坦であり、それより後ろになってはじめて徐々に座席が高くなっていて、しかもスクリーンの位置が低いのです。
日本人としてもそれほど背の高い方ではない私は、視野に入るスクリーンの下方を、前列に座っている人々の頭でさえぎられてしまうはめに陥ってしまいました。そうはいっても、武満徹のいうところの「闇の中の夢の時」を大きな画面の前で過ごすのは、それなりに快感ではあるのですが。
映写されていたのはロシア語吹き替えのDVDの情報でした。スウェーデンの化粧品会社(オリフレイム)とスウェーデン大使館がスポンサーの企画とのこと。私がキエフに来たばかりの1994年当時にも、市内でベルイマンの連続上映会があったことを、当時の日本人留学生の方が話していたのを思い出します。それじゃまた。(2007年7月11日)
|