追 悼 集



米原万里さんの三回忌に寄せて


万里さんのこと 三回忌に寄せて

黒岩幸子

9月のまだ暑い昼下がり、万里さんと私は、鎌倉の彼女の自宅から自転車に乗ってお寺を見に出かけた。入り口付近はありふれた普通のお寺に見えるけれど、奥行きのある境内はかなり広く、古めかしいお堂や墓石が緑の中に佇んでいる。
「両親は共産主義者で無神論者だったからお墓はないの。でもこの頃やっぱりお墓がある方がいいと思うようになって」
妹のユリさんの伝でみつけたというお寺の下見に、私もお供したのだった。手入れの行き届いた庭に花が咲いていて、カメラを手にした訪問者も多いこのお寺を、万里さんは気に入った様子だった。
「ここに両親のお墓を建てて、いずれ私もそこに入る。そして甥っ子についでに私の分までお墓の面倒を見てもらうわけね、フフフ」

なるほど、誰に自分の墓守を頼むかという、子の無い人間にとっての難題はこれで解決、私も早めに姪っ子に頼んでおこうと思った。帰り道で夕飯の食材を買い足して、私たちは家まで自転車をこいだ。

 それから二年も経ぬうちに、万里さんが浄慈院露香妙薫大姉になってこのお寺の住人になるなんて。あの時、どうしてそんなこと想像できただろう。



I

 本の執筆に、新聞、雑誌の連載を抱え、テレビのレギュラー出演までこなしている万里さんの私生活は、締め切りに追われる厳しいものと思い込んでいたが、時折ふらりと泊めてもらうようになった2004年夏以降に見た彼女の日常は、意外にも静かで落ち着いていた。
「私も人並みに休むことにしたの」
ということで、土曜の夕方に週刊誌の連載原稿をファクスした後は、月曜朝の仕事開始まで休養、テレビ出演も月に一回だけ、そして愛犬、愛猫のお世話に余念が無かった。


 私が見た万里さんのフツーの一日

5:00 起床 犬の散歩
 ピレネー犬二頭(クレとナナ)と雑種のモモ。一人で三頭を連れ歩くのは無理なので、散歩のためのヘルパーさんが毎朝通って来る。泊まった日は私も参加。何通りかの散歩コースは、犬たちの朝の気分で決まる。ピレネー犬は大きすぎて、私はもっぱらモモ係だったが、慣れてからは大人しいクレの紐も持たせてもらった。

6:00 帰宅 犬猫の朝食
 万里さんのグルメは有名だが、彼女自身も料理がうまい。犬猫、人間どちらの料理も手抜きせずに手早く仕上げる。三頭の犬は庭で、五匹の猫は二階に上がる階段をそれぞれ一段ずつ使ってお食事。

7:00 人間の朝食
 朝の定番はまず、ブドウやリンゴをジューサーにかけた果汁100パーセントのフレッシュジュース。カリッと焼いた黒パンに万里さん特製のたらこバターを添えて。サラダには新鮮な野菜を引き立てるちょっときつめのドレッシング。これもバルサミコソースと味の素を使った万里さんの手製。ふわふわのオムレツか目玉焼き、ロシア製のポットにたっぷり入れた濃い目の紅茶。たまにスライスチーズ(犬に飲ませる薬を包むために買ったのが、硬すぎてうまく丸まらずに人間の朝食に流用されたもの)

 食事はすべて万里さんが作ってくれるので、散歩から帰ると私は二階にある明るくて見晴らしのいいお風呂場でシャワーを浴びた。米原邸で私に課せられた仕事は、ただ一つ食後の皿洗い。犬猫の食器も含まれるけれど、彼らは一匹につき一個だからたいした量ではない。お先にシャワーして次は万里さんどうぞと言っても、「私はいいの」とパスされることがあった。じゃぁ、夜?
「夜も浴びないわよ、いいの今日は。毎日シャワーする必要なんかないの」。
はぁ?ピレネー犬二頭に引っ張られながら散歩して、けっこう汗かいたのに? 原稿に追われてるときは、月平均入浴回数2回とどこかに書いていたが、まんざら誇張ではなさそうだ。不思議なことに、こうしてお風呂に入らなくても万里さんの髪はさらり、お肌はつるりで決して汗臭くならない。特殊体質なのだろうか。

 風通しのいいダイニング・キッチンでゆっくり朝ごはんを食べながら、テレビを見たり、おしゃべりしたり。その最中に時々万里さんは、テーブルに両肘をついて自分の額を両手のひらに載せるようなポーズで目を閉じると、「フーッ、フーッ」と大きく深呼吸したり、「ハァー」と声を出したりすることがあった。何だかしんどそうだったけれど、これは朝の食卓だけで、あとはいつも元気だった。

9:00 書斎へ
 万里さんが二階の書斎でどんな風に仕事していたのか、どんな苦闘が繰り広げられていたのか私は知らない。恐らく、猛烈な集中力で執筆していたのだろう。とにかく書斎にこもったら声はかけない、ドアにも近づかない。私は皿洗いを終えて、居間やら寝室やら、いろんなところにある新聞、雑誌、本、写真集、好き勝手に引っ張り出して読み耽った。

12:30 人間の昼食(犬猫は一日二食で昼食は無し)
 昼ごはんは麺類。パスタ、おそば、うどん、暑い日には笊いっぱいのお素麺。犬猫とちょっと遊んで、いろんな本の話などする。その頃ちょっとヘタッていた私への万里さんの処方箋は、奥田英朗『空中ブランコ』(文藝春秋)と桐野夏生『グロテスク』(文藝春秋)で、前者は抱腹絶倒の後に暖かい涙で癒されるから、後者は落ち込んでるときは思いっきり陰惨な話でシンクロするのが一番だから。効力は定かでなかったが、シュールな処方箋としては南伸坊『本人の人々』(マガジンハウス)があった。万里さんが「パロディーの鑑」と絶賛するこの本というか写真集、なんと説明してよいかわからないので関心のある方は現物をどうぞ。

13:30 再び書斎へ
 私は皿洗いの後、居間の大きなソファに寝そべって再び読書三昧。寝心地は良いのだが、ソーニャとターニャ(シベリア猫)の通り道なのか、時々おなかの上を通過されて涎をたらされることもある。米原邸の居間は広い庭に面していて、その先は竹林の丘につながっているので、緑いっぱいの明るくて居心地の良い場所だったが、ある日、縁側に冷房完備の密閉型ガラス張りテラスができたために、夏は風通しが悪く蒸し暑くなっていた。テラスはピレネー犬のために改築されたもので、その名のとおりピレネー山脈出身の二頭は暑さに弱く、人間と違って昼間は冷房入りテラスでお休みになるのだった。

17:00 犬猫の夕食
犬猫が朝と同じような体制で夕食。人間の夕食は遅れることがあっても、犬猫は定時なので、仕事が途中でも万里さんは中断して降りてくる。いろんな締め切りがあって大変だと思うのだが、書斎に入るときも出るときも彼女は穏やかで、きりきりした様子を見たことがない。何を書いているのか話題に上ったことは無いが、一度だけちょっと遅めに降りてきて、「ほら、これ」と見せてくれたことがある。御玉稿はA4 コピー用紙に鉛筆で描かれた「下手ウマな」イラストだった。週刊誌に連載しているエッセイのイラストも自分で描いているそうで、イラストレーターとしての屋号はARAIYAYO(あら、イヤよ)?!
「これ私が描いてることは秘密なの、誰かの目に留まってARA IYAYOに仕事の依頼が来たらどうしよう、また忙しくなって困っちゃうなぁ、ムフフフ」
《はぁ? そりゃあ、まったくの杞憂ってもんでしょ》。(以下、《 》内は声にできなかった私の胸中のモノローグです)。この日に見た奇妙なイラストは、そのほかの彼女のイラスト満載の『発明マニア』(毎日新聞社/2007)の中に後になって見つけた(165頁)。

19:00 人間の夕食
 夕食は和風が多かった。オーソドックスな魚の煮付けにお浸し、お吸い物と雑穀入りご飯など。休みの日は、午後から本物のビーツを使った大量のボルシチや炊き込みご飯を作ることも。

20:00 犬猫のお世話
 夕食後に書斎に戻ることは無く、それから寝るまでの時間は、居間で大型テレビを見たり、面白そうな本をめくったり、犬猫と遊んだり。ピレネー犬二頭は、涼しくなった庭でじゃれたり走り回ったりして夜の運動をした後に、テラス内のそれぞれの個室に入って就寝。家の中と外を自由に行き来している猫たちも、全員呼び戻されて夫々お気に入りの場所へ。

23:00 人間の就寝
 寝室は二階で、犬たちは上がってこないが、猫たちはベッドを含めあらゆるところに出没する。万里さんの寝室と引き戸でつながる隣の部屋で私は寝ていた。ある日ベッドに入ろうとしたら、掛け布団の上に少し水がたまっている。
「あーら、いけない子ね、またこんなとこにオシッコしちゃって、ここはダメっていつも言ってるでしょ!
万里さんは、慣れた手つきでティッシュで水分をふき取り、消臭剤を23回吹き付けて、「はい、これで大丈夫」
《ゲッ、猫のオシッコ布団で寝るの?》でも米原邸の犬猫と対立したら、私が居ずらくなるのは目に見えているので、大人しく私は、猫オシッコと芳香剤の入り混じった匂いのする布団に入った。万里さんは、ベッド前のテレビをカチャカチャとしばらくザッピングして、すぐに静かになる。こうして翌朝5時に猫たちが枕のあたりをうろつくまでの眠りに入る。


 前年に10年以上介護してきたお母さんが亡くなられ、彼女自身も卵巣嚢腫の手術をしたせいもあったのだろう。鎌倉の万里さんは、相変わらずの毒舌だったが、完全武装で肩で風切るような雰囲気をかもし出していた通訳全盛時代とは随分違って見えた。かつての剣が取れて、仕事も家もペットもそして自分自身も大切にしながら人生を楽しんでいるように見えた。エネルギーをぶち撒きながら疾走するハチャメチャな米原万里は過去の人になり、これからは作家としての円熟期に入るのだなぁ、そう思って眺めていたのに。



II

 私が万里さんとの知己を得たのは1980年代後半、某航空会社のモスクワ支店に3年ほど勤めて帰国したころだった。東京の地価高騰で、私は新たな住処の確保に苦労した。そこには国を挙げてバブルに酔い痴れる、私の知らない日本があった。出国してきたばかりのソ連は、さらにわからなくなった。ソ連特有の閉塞感と安定感、矛盾や抑圧や怠惰を毎日のように肌で感じ、一端のソ連通のつもりだったのに、その後の展開はまったく予期せぬものだった。

 日本のこともロシアのこともろくにわからない惨めな帰国子女状態の私には、同時通訳者として圧倒的存在感を発揮している万里さんは眩しすぎた。長い黒髪を無造作に束ね、濃いシャドウで瞼を塗りつぶし、大きなアクセサリーに奇抜な服、強烈な香水に高いヒールで闊歩するその姿は、「みんな見てちょうだい、私は異邦人の女王様よ!」と豪語しているようだった。日本でもロシアでも見たことのないこの「変種」、一体どこから出てきたのか、その経歴は皆目検討がつかなかった。いつまでも時空間の歪に挟まって疎外感に苛まれているわけにもいかず、私はとりあえず通訳で糊口を凌ぎはじめた。時代はすでにロシア語通訳バブル期に突入しており、ロシア語の能力とは無関係に次々と仕事が舞い込んできた。「ロシア語通訳協会」なるものの存在を知って、入れてもらったら意外にも万里さんが事務局長という地味な仕事をしていたのだった。

 直接話すようになった女王様の中身は、その容貌以上に異邦性に満ちていた。高校時代から一日一冊読破していたという本から得た博識、特異な子供時代、虫歯ゼロの真っ白な歯を見せてムフフと笑いながら発するユーモアとアイロニー、中年オヤジもたじろぐシモネタ、思ったことはすぐ口に出す屈託のなさ。そしてその労働量。同時通訳だけでなくありとあらゆる通訳、翻訳、さらには通訳協会の雑務や原稿書きまで。

 ある日成田空港で会ったら、経済ミッションの通訳を済ませてモスクワから到着したばかりだという。
「でもね、4時間後の飛行機でまたモスクワへとんぼ返り。これから空港でやるレセプションの通訳があるから、モスクワで待ってるわけにはいかなかったの」

次の仕事は、高名な茶道家元の大ミッションの通訳だった。私はそのレセプションを会場の後ろから眺めていたが、万里さんは時差の疲れなどまったく感じさせず、メモを取ることもなく原発言よりも美しく通訳し、華やかなレセプションにいっそう彩りを添えていた。

「私は働き者だから」
本人が言うとおり、その活躍ぶりは抜きん出ていた。そして仕事量に伴って、万里さんにまつわる面白い話も増えていった。

 某閣僚経験者の頭を「オイ○○」と呼んで履いていたスリッパで殴りつけたとか、財界大物のスピーチ原稿を事前チェックして、「あなた、これじゃ、何言いたいのかさっぱりわからないわよ」と書き直しさせたとか、通訳してもらってる間中、ずっと怒られてるような気がして怖かったとか。真偽のほどはさておき、この手の逸話ならいくらでもある。

「通訳はやめられない、だってネタの宝庫だもん」
文筆家として名が売れてからも、万里さんはこう言っていたが、彼女をネタに「万里の武勇伝」など物す人がいたら、きっと爆笑シリーズ本ができると思う。

 エネルギーの塊みたいな人だから、気性も激しかった。彼女にどやしつけられた経験がないと、その迫力はわからない。親の葬式でも泣かなかったこの私さえ、いつだったか彼女のあまりの剣幕につい人前で涙したことがある。通訳協会の事務にかかわる些細な事が原因だった。こういう怖い思いをした人は、私のほかにもいるようだ。ある日、万里さんに負けず劣らず気の強そうな女性からこう言われて、危うく噴き出しそうになった。

「ねぇ、ねぇ、これまで私って自分ではとっても強い女だと思って生きてきたの。でも米原さんと仕事して、ホントは弱い女だって気づいたわ」
《はぁ? そりゃ単なる勘違いでは?》万里さんに限らず、通訳業の女性たちは総じて気が強い。年季が入るにつれ、心臓に毛が生え面の皮もかなり厚くなる。また、そうでなくてはこの世界でやっていけない。通訳業に限らず男社会で働く女性たち全般にも通じることだろうが。そういう女性たちを、「あぁ、私ってホントはか弱い女、ヨヨヨ」としばし自己陶酔させてくれる万里さんの存在は大切だったかもしれない。男に押さえつけられてもますます反発して強くなるだけだが、同性だと安心して「私って弱いオンナ感」に浸れるのかも。それにしても、こんなこと口が裂けても万里さんには言えなかったなぁ・・・。

 爆発した後はケロリとして、万里さんと私の距離や関係に変化はなかった。通訳協会の事務を手伝うようになった私は、東京の馬込にあった彼女の自宅で名簿の整理やお知らせの発送をすることもあった。女王様の自宅と私生活は、意外に質素だった。通訳資料がぎっしり詰まった書棚と小さな机だけの書斎、体に良いからと畳の張ってある硬いベッド、昼を挟むときは昼食をご馳走になったが、キッチンの電気炊飯器は戦後の焼け跡から拾ってきたかと思わせるくらいの年代ものだった。

帳簿付けから切手貼りまで、ごく単純な雑務を万里さんは生真面目な顔をして独り言を連発しながらテキパキ進める。
「えーっと、これはここで、これはそっち、フムフム、で、これは何だっけ?えーっと、えーっと、何だったっけ? ウン?」

 外では自信と個性が服を着て歩いているような万里さんだが、自宅では、知的で健康的でちょっとドジなお姉さんという感じだった。スッピンの顔は、きめ細かな肌と白い歯が引き立って、狸化粧の万里さんよりずっと自然でやさしく見えた。

 

ソ連邦は崩壊し、波乱含みの新生ロシアが世界の注目を集めていた。その後私は東京から札幌に居を移し、さらに盛岡へ移って大学に籍を置いたので、通訳の世界から遠ざかり、通訳協会では幽霊会員同然になってしまった。万里さんは、『不実な美女か貞淑な醜女か』(徳間書店/1994)で華やかな文壇デビューを飾り、次々と新作を上梓しては賞をさらった。多忙を極めているはずなのに通訳協会の会長まで引き受けて、エネルギッシュなのは相変わらずだった。直接会う機会はほとんど無くなったが、私は米原万里の一読者として、彼女の新しい作品が盛岡の書店に並ぶのを楽しみにした。

2000年までの平和条約締結を目標に掲げた日ロ関係は、いくつかの波を超え、その目標は達成されぬままに、無名のプーチン大統領が登場して世界を驚かせた。日本は対ロ政策の舵取りに腐心していた。



III

ほとんど会うこともなく七年以上過ぎた20025月末、突然万里さんから盛岡の自宅に電話が入った。
「ねぇ、あなた佐藤優さんのこと知ってるでしょ?今、彼に対する人格攻撃がひどいじゃない。援護してあげないと。私、彼がお金や権力のためにヘンなことをする人間じゃないというのはわかるの。だけど、彼のことはよく知らないから、あなた何か書きなさいよ、私がどこかに載せるようにするから」

 いわゆる鈴木宗男疑惑で日本中が沸き立っている最中で、彼に近い人たちが次々と逮捕され、外務官僚の佐藤優氏もその一人だった。佐藤氏はロシア語通訳協会の学習会で講師を務めたこともあり、万里さんと面識があった。万里さんは、佐藤氏の人格が当時マスコミで取り沙汰されているようなものではないことを直感的につかんでいた。私も彼とはビザなし交流で知り合い、真剣に日ロ交渉に取り組んでいる姿を知っていた。
「外交や仕事については、佐藤さんが保釈になってから自分で説明すればいい。でも自分で自分の人格がいかに高潔かを説明するのは、まずいでしょ。だからそれは、友だちがやってあげないと」

すでに逮捕直後から、佐藤氏の学友たちが支援会を立ち上げていたが、メディアスクラムによる大バッシングの前にその声はかき消されていた。私は、佐藤氏が自身の出世やお金にはまったく無頓着で、時に過労で入院しながら仕事をしていたことなどをメモにして万里さんに渡し、知名度のある彼女のマスコミでの発言が一定の影響力を持つよう期待した。

しかし、この企画は実現しなかった。マスコミが知りたがっていたのは、佐藤氏と鈴木宗男氏との関係だけで、佐藤氏の人格が高潔か卑劣かには誰も関心を示してはくれなかったからだ。万里さんの提案は、どの編集者からもやんわりと断られたようだった。こうして人格擁護作戦は失敗に終わったが、私はその相談もあって、彼女の自宅を訪ねることになった。東京から移った新居は、鎌倉の閑静な一角にある、万里さんのアイデアがたくさん詰まった居心地のいい一軒家だった。機能的なキッチンやそれに隣接する食料保管場所を兼ねた倉庫、大量の本を合理的に収納できる書庫、明るい書斎、猫の出入りを配慮した窓やドア、大きな作り付けのクローゼットのある寝室等々。

執筆中心の生活になったせいか、万里さんの外見はかなり重量感を増していた。花形通訳時代には、女優並みの衣装代を使っていた万里さんのワードローブはどうなったのだろう。馬込の自宅に出入りしていた頃、私は彼女が着なくなった服をただ同然で譲ってもらったものだ。入らなくなった上等な服が山ほどあるのではと、ちょっと期待したのだが、手遅れだった。
「あー、昔の服はサイズが合わないから、ぜーんぶ友達に上げちゃった。今はもっぱら通販で伸縮性のあるものしか買わないの。レギュラー出演のテレビ番組が衣装は局で用意するって言うから、私のサイズを教えたんだけど、合うのがないから自前でやってくださいだって、アハハ」

 女王様は外見とともに趣味も変わっていた。豪華なドレスの変わりに、箪笥の中にはTシャツや綿パンが山ほど詰まっていて、「どれでも好きなものに着替えてね」とのこと。犬猫のお世話で汚れてもすぐに洗濯できるような品揃えになっている。外出時もゆったりしたパンツに木綿のシャツ、スニーカーにリュック、おまけに某航空会社のファーストクラスのお土産品というポシェットを肩からはすに掛けて。

 あのー、ハイヒールやめたんですかと、思わずお尋ねしてみたところ、
「そういえば、誰かもあなたがズック履いて来るなんて・・・とえらく驚いて絶句してたわ、アハハ」


この年の11月に万里さんは、函館と東京の講演の合間に一日だけ余裕ができたと、盛岡にやって来た。盛岡には、母親同士が同級生という縁で、米原家が家族ぐるみで仲良くしている戸田家がある。万里さんは子供のころはよく遊びに来たそうで、大学入試の際には半年近く戸田家に居候して受験勉強に励んだそうだ。30年ぶりに盛岡を再訪した万里さんは、町の変容に驚いていた。

受け入れ側としては、グルメの万里さんに何を食べさせるかが問題だった。まず到着後の夕食は、無難にホテルの和食会席。うちに泊まったので、朝食はゴーダチーズをたっぷりのせた厚めのチーズトーストにロイヤルミルクティー、ベーコンエッグにサラダ、果物、ヨーグルト。念のためにトーストもう一枚食べますかとお尋ねしたところ、「ウン、食べる」と迷いのないお返事が。朝食後ゆっくりしていたら、私の部屋をぐるりと見回して一言、
「なんかこの家、おととい引っ越してきましたって感じね、ムフフ」
さすが稀代のエッセイスト、すでに五年近く住んでいる我が家を端的に表現されてしまった。

お昼は、盛岡駅前の定評のある焼肉屋で、結構なお肉を二人で平らげたあと、万里さんは冷麺を注文。スープを最後の一滴まで飲み干して、
「うっぷ、この味は、ちょっと私には合わなかったわ」
はぁ? じゃぁ、残せばよかったのに。
「だって、もったいないじゃないの」

うーん、今なら岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』(新潮新書)読ませてさしあげたいところです。その後、私たちはおいしそうなケーキをたくさん買い込んで戸田家を訪ねた。家族同様のそのお宅で、万里さんはおやつにそのケーキを二個。懐かしいお話をたくさんしているうちに、帰京の時間となった。駅まで送ると、
「あー、久しぶりにゆっくりできてよかった。じゃぁ私、夕飯の駅弁選んで新幹線に乗るから。またね」


ところで、人格擁護作戦後、万里さんと私は佐藤優氏の話をすることはなくなったが、その後、佐藤氏は『国家の罠』(新潮社/2005)を皮切りに次々と本を出して大ブレイク中なのは周知のとおりだ。佐藤氏の文壇デビューを万里さんは歓迎し、処女作を高く評価していた。そんなある日、万里さんが佐藤氏の第二作目を酷評している記事を、偶然に週刊誌で眼にして笑ってしまった。「国家権力に寄り添って生きてきた惰性なのか」、「まだ役人生活への未練があるのか」(『週刊文春』20051124)と、しっかり悪態までついているではないか。もちろん、万里さんの真摯な評価なのだろうが、アマノジャクというかヘソマガリというか・・・。大バッシングで痛めつけられている孤立無援の佐藤氏の擁護に奔走したくせに、処女作が成功して軌道に乗り、みんなが持ち上げだすと、歯に衣着せぬ物言いでけなす。主流派に迎合して流されていく今の日本を見ていると、こういう「アマノジャク」が去ったことは、本当に残念で、国家的損失だと思う。

万里さんと佐藤氏のことでは、さらに後日談がある。佐藤氏が彼女の死後に書いたもので知ったのだが、万里さんは、彼が商業媒体でものを書けるよう支援したわずか四人の中の一人だったそうだ(『獄中記』岩波書店/2006/463-4頁)。あの人格擁護作戦の失敗の後も、万里さんはあきらめずに尽力していたのだった。



IV

 佐藤氏の支援のほかにも、万里さんは、解散話の持ち上がったロシア語通訳協会を水際で阻止して自ら会長を引き受け、その事務所移転に奔走し、犬猫のお世話にもさらに精力を注ぐという八面六臂の大活躍だったが、本業の執筆活動はさらに華やかだった。

 優れたエッセイストとしての名声を確立しながら、そこに安住することなく、ドキュメンタリーに挑んで大宅壮一ノンフィクション賞を受賞(『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』角川書店/2001)したばかりなのに、その翌年には、『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社/2002)を発表した。持ち前の明快さやユーモアをふんだんに散りばめながら、重いテーマを緻密な構成で描ききった初の長編小説。米原万里の底の深さを改めて感じると同時に、やはり常人ではないと思った。

『反語法』はBunkamuraドゥマゴ賞を取り、200310月の授賞パーティーには、たまたま東京にいた私も呼んでもらった。池澤夏樹氏との対談でも、受賞挨拶でも万里さんはいつものように艶のあるよく通る声で話した。いつもの冗談や皮肉が飛び出すことはなく、父親が地下に潜伏していた子供時代のこと、辛い思いもしたプラハ時代のことなどをゆっくりと噛みしめるように語った。そこにはエッセイストと同時に、小説家としての新たな厳しい道に乗り出した米原万里がいた。これからも万里さんは、重厚な小説をいくつも書くだろう、そして軽妙なエッセイも。きっと新しいジャンルにも挑戦するだろう、童話やら俳句やら、戯曲だって書くかもしれないし、翻訳にも手をつけるかもしれない。そして、いつまでも読者を驚かせ、楽しませてくれるだろう。

一読者としての私の楽しみが、こんなに早く奪われるなんて。

授賞式の万里さんは、お母さんの葬儀を済ませたばかり、本人も手術を終えた後で、顔色が少し蒼白く見えた。彼女の健康は気になったけれど、あの明るさから何か深刻なものを感じ取ることはできなかった。


20048月、9月に私は万里さんの家に用事もなく泊まりに行った。その頃、私は東北に引っ込んで7年目、精神の不調に悩み、何も手につかず億劫、かといって一人でいるも嫌という厄介な状況だった。久しぶりに会った万里さんは、自宅近くの洒落たフランス料理店に誘ってくれて、病気のことなどあれこれ話してくれた。
「私ね、卵巣癌と聞いたときは、ショックで眠れなくて鬱になったの。でもね、一晩でまた元気になっちゃった、ハハ、そういう性格なの」

こんな万里さんの調子に、私は最後まで騙されていたような気がする。彼女が絶望や不安や痛みに苦しんだなど、当時はもちろん、今でもどうしても想像がつかない。2002年に再会してから私が見た万里さんは、いつものんきで機嫌がよく、食欲旺盛で健康に見えた。手術で完治したものと、私は勝手に思い込んだ。

米原家は、とても居心地のいい空間だった。大きな家に一人暮らしなのだが、犬猫たちがいつもたむろしているし、人の出入りもけっこうあって、さびしい感じがしない。34日滞在すると、万里さんを元締めとする緩やかなコミュニティーができているのがわかる。犬の散歩や家事を手伝うヘルパーさんは、午前中に数時間働いて帰る。マッサージの先生や庭の手入れをする人たちが来る。近くに住む妹のユリさんが寄って、台所のおなべを覗き込んだり、時には代理の甥っ子が頼まれ物を届けに来たりする。私は会うことがなかったが、万里さんが頼りにしている有能な秘書さんが、週に何日か訪れて仕事をする。誰も長居したり、油を売ったりしない、みんな静かに自分の仕事や用事を済ませて帰ってゆく。それは動物たちも同じで、犬は毎朝散歩に出かけて定時にご飯を食べる、猫たちも定時にご飯を食べて遊んで寝る。誰も他者に干渉しないし、他者からも干渉されない。大らかな協働で米原家は維持されている。

 しばらくすると、万里さん特有の人道主義と合理主義の構造もわかってきた。《お手もできないオバカな犬をここまで可愛がるとは酔狂なこと》、といささかあきれていたのだが、クーラーつきの個室を与え、吠え癖を直す学校に通わせ、薬に食事に膨大なお金をかけていたピレネー犬二頭についてこんな話をしてくれた。

「この犬たち、前の飼い主がろくに世話もしないで炎天下に放っておいたものだから、売りに出されてたときは、毛は抜け落ちて、病気で、息絶え絶えという感じだったの。ピレネー犬ならほかにもいたの、その犬たちにはいくらでも買い手がつく。でもこんな病気の犬は私以外、誰も飼おうとは思わないでしょ。そうすると、いずれお荷物になって処分される。だから私が引き取ることにしたの」

 そういわれてみると、クレの胴は不自然にくびれて痩せてるし、ナナも散歩中に時々挙動不審だった。万里さんがいくら呼んでも、お尻を向けたまま動こうとしない。あきらめて散歩紐をはずして放っておいて先に家に帰ると、20分位してから戻ってきたナナが門の前で中に入れろと鼻を鳴らしている。ただし、人間不信で自閉気味だったナナも他の動物たちも、米原家のただの食客というわけでもなかった。犬猫のお世話は、明らかに万里さんの生活にリズムをつけ、彼女の健康管理に役立っている。朝の散歩は、犬たちが重量オーバー気味の万里さんを散歩させているとも見える。米原家には、日系三世で学費をためている若い人とか、フルタイムの仕事ができないのでフレックスタイムとか、いろんな事情のある人たちが、自分たちにあった条件で効率的に働いていた。

 米原家の居心地の良さというのは、広くて立派な家があるからではなくて、そこに人も動物も無理せずに自然に協働する「場(トポス)」ができあがっていたからではないだろうか。私は、万里さんは、イデオロギー性を欠落させた共産主義者だったと思う。幼い頃、「太っててキョーサントーなんだから」と誇りにしていた、彼女の父親の生き方そのものから受け継いだキョーサンシュギの精神、というより「心」をもった人だったと思う。

 米原家では人にも動物にも暖かく優しい万里さんだが、文筆の話になると厳しかった。彼女の軽妙なエッセイからは想像もしなかったが、政治の話に踏み込んで、連載予定が中止になったこともあるという。原稿を全面的に書き直してほしいと言われ、断ったら、次の依頼は来なくなったとか。
「ビジネスマンがよく読むような雑誌だったの。組織にいると、いろんなしがらみがあって、言いたいことも言えないでしょ。私は自由だからいくらでも言えるの、その私まで黙ったら世の中どうなるのよ」

新聞の書評を担当していた万里さんには大量の献本があったが、気に入らない本の書評は書かないと徹底していた。某新聞社から依頼のあった本についても、
「うんとけなしていいなら書きますけどと言ったら、じゃあ、けっこうですだって、ハハ」

万里さんは、人であれ、物であれ、わざとらしさや不必要に飾ることを嫌った。これは文章についても同じだ。
「どうしてこう小難しく書くの、もう少しわかりやすく書けないかしらね」
「学者って、自分が勉強したことはぜーんぶてんこ盛りにしちゃうからダメなのよ、このくらいにまとめなくっちゃ」(分厚い研究書を前に、親指と人差し指で3センチくらいの厚みをつくってみせながら)
「そうね、しょうもない論文書くより、翻訳するほうがずっと世の中の役に立つかもね、ハハ」

頬がヒクヒクしそうな、でも的を得たコメントが次々と出てきた。

 この年の暮れも差し迫って、また私は引き寄せられるように米原家に出かけ、大晦日の昼近くにやっと帰省した。年末年始も特別な準備はしないということで、人も動物もいつもと同じような生活だった。ただし、クレとナナは犬の美容院に出かけた。大きすぎて自宅で洗ってやるのは無理だからと、犬の美容師さんが車に乗せて連れて行った。万里さんは、年内に書くと約束した原稿を失念して、催促を受けて始めて思い出したと言って、午後に書き上げる予定だった。それなのに彼女は、私のためにインターネットで鎌倉から羽田までの行き方と汽車の時間を調べてくれ、例によって大量に炊き込みご飯を仕込み始めた。「ハイ、昼ごはん」と手渡された、アルミホイルに丁寧に包まれた炊き込みご飯のおにぎり二個をかばんに入れて、私は米原家をあとにした。その日以来、私は米原家に足を伸ばしたことも、鎌倉駅を通ったこともない。おにぎりは、鎌倉からの乗った電車の中ですぐに胃袋に収めた。

 九州の実家に戻り、万里さんにお礼の電話を入れると、いつになくはしゃいだ声がかえってきた。
「うちの子たち(クレとナナのこと)が、シャンプーして帰ってきたのよ。もうー、真っ白でフワフワ、すっごくいい匂いさせて、たまんないわー」
 で、原稿書いたんですか?
「それがさー、まだなのよ。あー、かわいー、擦り寄ってくるのよフワフワの毛で、わぁー」

早く書かないと、除夜の鐘が鳴りますよー。電話口で犬とじゃれあっているらしく、万里さんは上の空だ。その原稿がどうなったのか私は知らない、でも、ハッピーな年明けになりそうな様子だった。



V

 この大晦日を境に、私はまた万里さんと疎遠になった。私の身辺に異変が続いて、落ち込んだり甘えたりしている場合ではなくなったからだ。この年の初めに私の両親が相次いで他界し、そして私は結婚した。万里さんの癌再発を知らぬままに、私は慶弔重なった慌ただしい日々を過ごした。

その年の春、久しぶりに電話で話す機会があり、万里さんも多少面識のある私の結婚相手の名前を告げると、彼を思い出すのにしばらく時間がかかったようだったが、
「えー? ○○さん? アーハハ、アハハ」としばらく笑い続けて、
「おもしろがらせてくれてありがとう」

はぁ? 結婚してお礼を言われたのは、後にも先にもこれだけだ。
「アハハ、それで彼のどこがよかったの? まぁ、いいわよね、いやになったら離婚すればいいんだもんね、アハハ」
《ちょっとー、これから新婚旅行に出かけるのに離婚はないでしょ》

関西と東北の別居婚でスタートしたため、私は東北・山陽、二つの新幹線を乗り継いで通うことが多かった。新幹線で品川駅を通過するたび鎌倉の米原家の住人たちが気になったが、いまや私にはより強い磁場が関西にできていた。

この年、ロシア語通訳協会は設立25周年を迎え、その記念パーティーで久しぶりに万里さんと会った。私の顔を見た彼女の第一声は、
「私、痩せたでしょ?
は、はい。《と言っても前に比べればの話で、日本女性のスタンダードと比べると、まだかなりふくよかですよ》。誰かが、「なんだか、米原さんきれいになったみたい」と言うと、
「私、昔からきれいよ」

相変わらずの女王様ぶりだった。

鼠径部リンパ節への癌の転移がわかってから、食事療法で痩せたとのことだった。ドゥマゴ賞授賞式での万里さんと同じく、少し顔色が青ざめているように見えたが、相変わらずきめこまかな肌がきれいで、元気そうに見えた。確かに前年夏の重量感に比べると、ぐっとスリムになっているのがわかる。ダイエットでここまで体重を落とすとは、万里さんは本当に意志の強い人だと感服した。この年、ユーモアたっぷりの『パンツの面目 ふんどしの沽券』(筑摩書房)に続いて、年末には『必勝小咄のテクニック』(集英社新書)が世に出た。私はますます安心した。

 病状が深刻なものであることを知ったのは、年が明けてずいぶんたってからだった。私と万里さんの人間関係の距離は、近かったわけではない。家に泊めてもらうことはあっても、人生を語りあったこともなければ、詳しい病状を聞いたこともない。彼女がどんな交友関係を持っているのか、どんな男性とお付き合いしたのか、またしているのか、次にどんな作品を書こうとしているのか、私はなにも知らなかったし、彼女からも、プライベートなことを尋ねられたことはない。躊躇しているうちに、気軽にお見舞いに行くような状況ではなくなっていることを知った。四月も終わろうという頃、私は思い切って鎌倉の自宅に電話してみた。たぶん、どなたか付き添っているだろうから、正確な容態を教えてもらおうと思った。けれど、「ハイ、ヨネハラです」と電話口に出たのは、意外にも万里さん本人で、いつもと変わらないはっきりした声だった。よもや本人と話すとは思いもよらなかったので、私はとっさに何を言っていいかわからず、「万里さん、元気ですか?」と思いっきり間抜けな挨拶をした。
「元気ですかって、あなた、何言ってるの、私は寝たきりよ。原稿も一本を除いては全部断って、家で寝てるの」

私はさらになんと言えばよいかわからなくなり、しどろもどろでご無沙汰していたことを詫びていると、彼女はそれをさえぎって、
「そう、今度おいしいものでも持ってお見舞いにきて」

深刻な容態の人が、食べ物のことなんか考えるだろうか。相変わらず食い意地が張っているのは、エネルギーのある証拠。それに、憎まれっ子が世にはばからぬわけがない、口の悪い女は長生きするものなんだ。私は安心した。


 それから一ヵ月後、私は品川駅を通過したばかりの新幹線の中で米原万里の訃報を受けた。おいしいものを持ってお見舞いに行く約束は、いまだに果たしていない。万里さんに確実に「おいしい」と言わせるたべものを、まだ思いつくことができない。



VI

 「米原万里の死」は、私に実感を持たせてくれなかった。それが事実であることは、数日後にマスコミが訃報を流し始めてからは理解できた。それでも、鎌倉の家にも、お寺にも、送る会にも行くことができなかった。そして今も私は米原万里の墓前に立ったことがない。彼女に手を合わせたり、お線香を上げたりするなんて、どうしても不自然な気がする。鎌倉駅からそう遠くないあの自宅に行くと、今も彼女がドアを開け、犬たちが飛びかかって歓迎してくれるような気がする。それに過去二年間、彼女は次々と新作を世の中に送り出しているではないか。

 米原万里の本は全部読んでいるつもりでいたが、それは単行本だけで、当然ながら本に収まっていない大量の文章があり、その多くを私は読んでいない。おかげでこの二年間、私は途切れることなく、彼女の新しい本に楽しませてもらっている。どの本も終わりに近づくにつれ、読み終わるのがもったいなくて淋しくて、スピードを落としながら丹念に読む。ナイフで鋭く切り取ったような無駄のない文章に散りばめられたユーモアと機知、大切な情報やものの見方、米原万里ならではの作品もあれば、彼女が高校生を前に話す声が聞こえてくるような本(『米原万里の「愛の法則」』集英社新書/2007)もある。また、文字通り『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋/2006)にも遭遇した。

このすごい本に収録されている「読書日記」を読んで、私ははじめて彼女の病気と治療の全容を知った。そして、私がのんきに米原家で昼寝していた頃すでに、万里さんは死と隣り合わせで自分に合う治療法を考えていたことも。その癌対処法が、あまりに万里さんらしくて、そのことに私は打ちのめされた。


「医師が退室して、すぐにインターネットで調べまくる」(193頁)、「入院中に発注した癌本が届いていたので片っ端から読む」(195頁)。彼女の猛烈な読書欲と知識欲が、癌発症で刺激されたことは想像に難くない。自身の生死がかかっているというのに、その癌本のことを「スルスルと読みやすく」(249頁)、「興奮するほど面白い」(252頁)、「あまりの面白さに一気に読了」(253頁)などと他人事のようだ。「ああ、私が10人いれば、すべての療法を試してみるのに」(197頁)に凝縮された好奇心の強さと行動力。そして持ち前の批判精神は、どんなに苦しくても矛先をゆるめない。癌本の「圧倒的多数は、サプリメントや健康食品を売りつけるのが目的のあからさまな宣伝本で説得力ゼロ」(301頁)、代替医療のための商品の「人の弱みにつけ込んだ犯罪的な高さ」(195頁)を何度も指摘し、「金儲け一辺倒が透けて見える」(302頁)、「藁をも摑みたい癌患者の弱みに付け込んで犯罪的に高価であったが、再発によってまったく無効であることを確認できた」(305頁)、まさに、「わが身を以って検証」してみせる。書評のプロだけあって、癌本の造りに対する批判も厳しい。「重複部分が多い」(193頁)、「それぞれの著書のいいとこ取り(一部は完全なコピー)」(308頁)、「詐欺ではないかと思うほどにあまりにも内容に反復が多く、前作のコピーに少しだけ新味を加えるという造り」(311頁)。そして、創作意欲も衰えることがない。「万が一、私に体力気力が戻ったなら『お笑いガン治療』なる本にまとめてみたい」(300頁)。ぜひまとめてほしかった。恐ろしく面白い読み物になると同時に、癌患者のバイブルになったはずだ。

読書日記を読みながら、何度も私は「米原万里よ、もういい加減にしないか、つまらぬ療法に関わらずに、思い切ってメスで切ってしまえ」と叫びたくなった。特に医師たちとの軋轢があったことを思わせる箇所では、声を上げて泣かずにはいられなかった。「診療情報の提供をS 医師が頑強に拒んだ」(301頁)、「[貴女には向かない治療法だから、もう来るな。払った費用は全額返す]と言われてしまった」(310頁)、「[治療にいちゃもんをつける患者は初めてだ。治療費全額返すから、もう来るな]という展開になった」(315頁)。万里さんのあまりに率直な物言いと、成功した医師たち(おそらく全員が男性)の傷つけられたプライドが目に見えるようでたまらなかった。米原万里のパロールの解釈には、そう難しくはないが一定の文法の習得が必要だ。彼女のエクリチュールは多くの人に受け入れられるが、パロールは必ずしもそうとは限らない。「米原万里の反語法」に即座に適応できる日本人男性を、私は数えるほどしか思い浮かべることができない。

癌治療に関しては、万里さんの優れた資質である知的好奇心、行動力、意志の強さ、また財力までもが裏目に出たような気がする。癌を宣告されてから200冊の本読み込み、治療法を考える、決して医師の言うなりにならず、自分で納得するまで結論は出さない。詐欺のようだとあきれながら、次々と代替治療を試すことのできる潤沢な資金。こんなこと、凡庸で臆病な私には、絶対に考えられない。だいいち、そんなお金の余裕がない。でもこんな愚考はもうやめよう、万里さんに怒られそうだから。

それにしても、万里さんの命が引き換えにならなかったならば、癌治療に関する読書日記は、続きが読みたくてたまらなくなるような実に面白いエッセイになったはずだ。彼女が数多くの書評の中で、常に高く評価する点を完璧に備えている。まず、「これだけ充実した内容を読んでいるという意識すら忘れるほどにスルスルと読ませてしまう文章の魔法」(270頁)、次に「情報のレベルを高く保ちながら分かりやすさ、面白さを幸せに合体させている」(271頁)。どうしてこんなに早く逝ってしまったの? その身勝手さに腹を立てたくなるような気分を抱え込んでいたら、それに答えるかのように、万里さん自身の筆による「私の死亡記事」(『終生人のオスは飼わず』文藝春秋/2007/225-7頁)が舞い込んだ。これによると、元作家でNPO・グループ「アルツハイム」代表の米原万里さんは、20251021日未明に息を引き取っている。あの鎌倉の自宅に独身の通訳仲間を集めてグループ・ホームを設立したらしい。拾ってきた犬猫の数は実に98頭。笑いと涙が一度にあふれ出る死亡記事、やはり万里さん自身の予定よりも約20年早く逝ってしまったではないですか。そんなホームに住むのはごめんだけれど、たまには遊びに行きたかったのに。私はやっぱり不満です。



VII

 「死はまるで生に似ていない。でも死こそが生の完遂。死に区切られてこその生」(『心臓に毛が生えている理由』角川学芸出版/2008/165頁)。三回忌が間近に迫るのに、万里さんはまだ本を出し続ける。そこには、楽しい笑いとともにドキリとさせられるようなメッセージもある。間接的に伝わってくる彼女の言葉にも、はっとさせられる。「ガンで亡くなる前、[仏教での葬式が自分の唯物論の信念とぶつからないか]という相談を受けました」(亀山郁夫+佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』文春新書/2008/109頁)。一緒にお寺を見に行った20049月、彼女は自分の死をすでに意識していたのだろうか。

でもこうして彼女の言説をあれこれ詮索したからとて、何の意味があるだろう。三回忌には、ビジュアルな米原万里を眺めることにしたい。死後に出た本の中には、イラストや写真がけっこう多い。私が気に入っているのは、『マイナス50℃の世界 』(清流出版/2007/写真:山本皓一)の中で、天ぷらを揚げている万里さん(113頁)。イルクーツクのホテルの浴室だろうか。フライパン、食器、調味料、食材が並んでいるのは、ビデと便器の上。その間の狭い床にカセットボンベと油の入った鍋を置き、洒落たパンツルックとパンプスの万里さんがちんまりとしゃがみ込んで鍋から天ぷらを引き上げている。(その食材が何かは判別不能)。その横顔は、かつて馬込や鎌倉で雑務や料理をしているときに何度も見た生真面目で一生懸命な顔と同じだ。クリームでも塗っているのか、妙に白いほっぺたをして真剣に天ぷら揚げる万里さん、きっと取材チームがおなかを減らせて待っているのだろう。

米原万里を送る会(200677日)で配布され、私も後で譲っていただいた「米原万里思い出帳」の小さな白黒写真も楽しい。私は、この思い出帳ではじめて花形通訳以前の万里さんを知った。意外と田舎っぽい子供時代、家族をこよなく愛し、また愛されていた証、短い髪でエキゾチックな雰囲気の学生時代、衝撃の(?)水着姿。そして「1962年、12歳の夏」。プラハの自宅だろうか、椅子に腰掛けた少女の上半身をを斜め横から撮った平凡な写真。ノースリーブのワンピースから伸びた細い腕、かすかな胸の膨らみ。両肩にかかる硬く編んだ二本のおさげ。カメラを見据えているのに、その視線はどこか遠くを眺めているようで、うっすらと開いた口元は微笑んでいるようにも、何かを話し出しそうにも見える。突然この写真を見せられても、私はこれが米原万里とはわからなかっただろう。でもこの少女こそ、紛れもない米原万里の原形質ではないか。未成熟でありながら、すでに意志の強さを感じさせるそのまなざしは、未来への限りない好奇心と知識欲をもって、生に対する信頼と希望を語りかけている。

もうひとつ懐かしく思い起こされる映像は、万里さんの手。注意深く見たことなど一度もないが、少し大きめで、骨ばって指が長く、ちょっとかさついていることもあった手。どんなに派手な装いのときも、マニキュアをしない人だった。ペンを握り、キーボードを打つだけでなく、掃除、洗濯、料理、犬猫のお世話も家の図面引きも、何でもする働き者の手、表情のある手。そしてそんな手が備わっていたから、鎌倉の家には、いろんな人や動物やものが協働する場(トポス)ができていたのではないだろうか。そしてその延長線上に「アルツハイム」も見えてくる。そしてロシア語通訳協会も。

組織のしがらみを嫌い、自由であり続けた万里さんが、協会の存続だけには拘り続けたのも、この協会がいつかそのようなトポスを形成するコアになると感じていたからではないだろうか。みんなが緩やかに集まり、助け合うけれど、何も押し付けないし、押し付けられない。コアに入り込んでもいいし、周辺をうろついてもいい、それぞれが無理をしないで自分のできることをする。肝心なのは、いつも知的好奇心に満ちた面白がりやの集団であること。私は、2007年に幽霊会員から足を洗って、役員として協会のコアに戻った。万里さんの提言の「無理をしない」だけを忠実にまもることしかしていないけれど。もういい加減に切り上げないと、万里さんの声が聞こえてきそう。

「あなた、そんな駄文書いてる暇があるなら、もっと協会の仕事しなさいよ。ホームページ手伝うとか」



***

傍若無人のヒューマニスト、異文化複合のアマルガム、米原万里は逝ってしまった。

 それから二年、私は何度も彼女に泣かされてきた。でも涙の後には、彼女が内包していた希望や温もりを感じる。私の部屋の窓から北上川の勢いのある流れが見える。両岸の新緑は鮮やかだが、風はまだ冷たい。そんな風に吹かれていると、万里さんが造り出している時空を超えたトポスの存在と継承を感じる。盛岡のさわやかな五月は、米原万里の早すぎた死を静かに悼むのにふさわしく思える。


  盛岡にて 2008525


デザイン&入力:Ryuichi Shimizu /Yoshiko Iwaya/Yumi Kusuyama /Hiroshi Hamasaki/Kayoko Ikeda/Takumi Kohei/Yui Kuwahara/Chihiro Fujishima■監修:Hiroshi Dewa

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