キエフ少女合唱団の日本滞在ー思い浮かぶ光景・少女たちの姿
11月19日遅く、アエロフロート便でキエフに戻ってくると、気温は覚悟していたほどには下がっておらず、室内でもひざ掛け毛布がいらない程度の暖房は入っていました。
10月20日から1ヶ月、キエフの少女合唱団と日本で過ごした日々を振り返ると、まず頭に浮かんでくるのは、宇部市の街外れ、昔結核のサナトリウムだったという病院から海までなだらかに続く草原で、合唱団の女の子たちがウクライナの民謡を歌い、手をとりながら輪をつくって遊んでいる光景。それから、壱岐のやはり海を見下ろす丘の上に立っている教会の庭で、私の誕生日の朝、私を囲んでやはり輪になって回りながら歌をうたってくれている同じ女の子たちの姿です。
海を眺めるー忘れかけていたぜいたくな時間
私自身は、ヴィデオはいうまでもなく、写真も全く撮っていませんでしたから、こういう映像は頭の隅に残っているだけで、月日が経つと、いくぶんか美化されつつ、だんだん色褪せていくのかもしれません。でも、私は、やっぱり海が好きだったんですね。キエフにいると、ほとんど忘れてますが。
中国電力の原発建設計画に長年反対し続けている、山口県の祝島にも渡ってコンサートをしましたが(今は生徒が1人になっている小学校の体育館に、長い階段のある坂を上って、島民400人ほどのうち100人くらいが来られました)、その後、だんだんと暮れていく海岸をみんな(全島唯一の小学生の女の子とその弟も一緒に)で散歩したことや、壱岐から博多港までの船の上で、おだやかな陽射しをこまかくきらきらとはねかえす海をぼんやり眺めたことは、少なくとも日本ではずいぶん長い間経験しなかったぜいたくな時間でした。
13回のチャリティ・コンサートー緩和ケア病棟での感動
有料のチャリティ・コンサートは全部で13回あり、共演したのはピアニスト、フォーク歌手、シャンソン歌手、ソプラノ歌手、和太鼓、琴など(すべて日本人)、会場はカトリック教会、英国国教会、メソジスト教会、浄土真宗の寺院、看護大学のホールなどで、その他に病院での慰問コンサートや、学校(小学校から高校まで)でのコンサート・交流会もありました。
上記の宇部市の海辺の病院では、緩和ケア病棟という、ホスピスのようなセクションの患者さんと付き添いのご家族を前に歌ったのですが、患者さんたちもご家族も人間としての尊厳と落ち着きをあらわして聴いておられ、感動的なものがありました。
こういう、美しい景観と整った設備の病院で生を終えるというのは、経済的には必ずしも楽なことではないのではないかとも勝手に想像してしまいましたが、医療費の工面に苦しんでいるチェルノブイリ被災者の方々の話をウクライナでいつも聞いているため、頭が自動的にそういう働き方をしたのだと思います。どうもすみません。
原爆資料館の見学ー涙を流す少女たち
広島では、以前府中市のチェルノブイリ救援団体「ジュノーの会」の代表団とキエフに来られ、チェルノブイリ被災者との交流をされた被爆者のOさんが原爆資料館を案内してくれましたが、最初のあたりの、原爆投下前と投下後の市街を比較するジオラマの説明を聞いた時点ですでに涙する子があり、ガラスの破片がいちめんにつきささった跡が残るコンクリートの壁(赤十字病院のだったかと思います)の写真を撮ったのがアメリカ軍だという英語の表示を見て怒りの涙を流す子もあり、結局、指揮の先生の判断で、後半の生々しい展示を見たのは年長の子2人だけでした。
Oさんより漫画本「生きるんだ」のプレゼント
Oさんは私に、ごとう和さんが原爆を題材に描いた漫画の本(『生きるんだ』2006年刊)を下さり、ごとうさんに取材を受けた縁で、静岡に話をしにいくのだと言ってられたので、「ごとうさんは、昔僕らが豊橋でつくった浜岡原発反対のチラシに絵を描いて下さったんですよ」と言うと、Oさんは驚かれてましたが、生きてると、こういうふうに自分の過去が交錯することもあるんだなあと私も感慨を催してしまいました。
ちょうど修学旅行の季節で、平和公園は制服の生徒たちでにぎわって(というと不謹慎に響きますが、「原爆の犠牲者を記念する公園なのだから、はしゃいだり大きな声を出したりするんじゃありません」と先生に戒められたキエフの子たちに比べれば、だいぶ明るい雰囲気の生徒が多かったように思います)いましたが、なんだか、事前にしつらえられたセレモニーを行いに来ているかのような感じを受けたのは、合唱団の子たちの涙を見た後だったからでしょうか。
19世紀の木造建築教会でコンサートを行った忙しい一日
奈良では、20年ほど前私が奈良市西郊に住んでいた際の知人Kさんの大学時代の同級生が、現在の東大寺管長のお連れ合いだとのことで、気さくな管長夫人に無料で大仏殿の案内をしていただきました。
そのあと、近鉄奈良駅そばの古い商店街の中にいきなり存在している、19世紀に建てられた木造建築の教会でコンサートをやり、一曲は信者の方のコーラスをキエフの指揮の先生が振って、モーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』を演奏。
コンサート終了後には、前日宝塚市で一緒にコンサートをした、池田市のシャンソン歌手Sさん宅までマイクロバスを走らせ、Sさんのお弟子のおばさま方の心づくしの夕食をいただき、リクエストしてSさんの『枯葉』を聞いてから、合唱団の子たちが『恋のバカンス』を日本語で歌い(40年ほど前のソ連で、どういうわけかこの曲をロシア語でカヴァーした歌手がおり、おかげで、そのメロディーは旧ソ連圏で未だに記憶されています)、一行の女性たち(合唱団の女の子たちと指揮の先生、宇部の団体のIさん)をSさん宅に残して、男性(合唱団のピアノ伴奏者、宇部の団体の人でマイクロバスを運転していたHさんと私。Hさんは私と違って体格もよく、髪は波打っていて、日本人離れして見えます)が近くのビジネスホテルに行くと、ロビーにたむろしていた東南アジア系の目つきの鋭い男性たちが、文字通り貫くような眼差しでこの奇妙な3人連れを見る……という、文化的にきわめて忙しい(?)一日もありました。
愛情・笑顔・信頼ー合唱団の少女たちから受ける印象
合唱団の10人の女の子たちは、持ち物や衣服から判断して、キエフの標準からすれば比較的裕福な家庭の子が多いのでしょう。親御さんたちが教育にも配慮をし、課外の音楽学校(そこで、ピアノやヴァイオリンの他に声楽も習い、合唱団の一員として活動している)に通わせているのだと思います。しかし甘やかされているというのでなく、彼女らの日本人たちへの対し方から、よい意味で家族に愛されているのだなあという印象を受けました。
愛情とか、笑顔とか、信頼とかいうものは、周囲から与えられてそれを自然に他の人に伝えていくものではないかと私はいつからか思っているのですが、それは憎しみとか悪意とか冷ややかさについても言えることでしょう。
指揮の先生は50代半ば、たしか父君がロシアのヴォルゴグラードの生まれ、お母さんがキエフの方で、ヴォルゴグラードでキエフ出身のお連れ合いと知り合い結婚されたと伺ったように思います。お連れ合いはチェルノブイリ事故当時内務省職員で、事故直後に現地に動員され、人々の避難の指導にあたったそうですが(プリピャチからの避難の指揮もされたのでしょう)、現在は年に数ヶ月は検査や治療で入院をされているとのことでした。
コンサート前のリハーサルにもずっと立会わせていただきましたが、スポーツ部並みの厳しさで、きつい指摘が次々と浴びせかけられ、口答えは即座に封じられます。
しかし子どもたちもそれに負けていない……というか、それに負けないタフさを持ち合わせ、なおかつ育ちのいい子が、今回の日本行きにも選抜されたのでしょう。
舞台で披露されたのは、ウクライナ民謡、現代ウクライナの合唱曲、チャイコフスキーのオペラの断片などで、日本の曲もいくつか日本語で歌われ好評でした(『小さい秋見つけた』『ビリーブ』『ふるさと』)。
「天使のような歌声」ーある瞬間の実現
コンサート後の感激の勢いか、「天使のような歌声でした」と口にした某会場の主催者がいましたが、彼女らと1ヶ月つきあって、けっこう口の悪いところも耳にしてきた私としては、この表現はちょっと避けて通りたいところです。まあ、「すべての天使はおそろしい」というリルケの詩句を思い出す人も、いまどきの日本にそうたくさんいるわけではないでしょうが。
しかし、人間の美点と短所のいろいろを備えた子どもと大人が、音楽と聴衆の力を得てある瞬間を実現させるということは実際にあり、その瞬間には、人が芸術を創るのでなく、芸術が、創る人と享受する人の両者を動かすといえるのかもしれません。
広島でのコンサートの後、モンゴルの砂漠の緑化に長く関わっているというご住職が、「命はひとつ、その命が私たちをつないでいるのだということを感じさせていただきました」とおっしゃったのも私の耳に残っています。
私には、その意味が充分にわかったとは言えないのですが、子どもたちの歌声が、空間と時間に向けて放射される命の勢いみたいなものとして感じられ、そういうものをじかに感じ取る機会がずいぶん長いことなかったせいか、舞台の袖で眼中に涙の気配を抑える努力をしたことも一度ならずありました。私は、ひょっとして、基本的にセンチメンタルなんでしょうか?
12月のキエフ
で、私がキエフに戻ってくると、キエフ市長チェルノヴェツキー氏は12月から各種公共料金を3倍に上げるという強硬策を打ち出しており、市議会野党と一般市民の猛反発にもかかわらず態度を変えていません。結局、この値上げの正当性を調査するための委員会が市議会内に組織された、というところまで私はニュースを把握していますが、どうなるのでしょうか。
私の知人の、月60ドル前後の年金で生活しているチェルノブイリ被災者たちにとっては大問題です。
今のところ天候は暖かめに推移しており、私の不在だった11月に一度雪があったそうですが、その後はプラスの気温が続き、正月も雪はないのではという予報がありました。それでは、年内にできればもう一度続報をお送りしたいと思います。(2006年12月11日)
竹内高明(キエフ在住)