No.29




秋の訪れに多忙な日々

9月、キエフでは暖かな天候が続き、樹々の葉の色づきがゆっくりと進んでいましたが、私はなにかと気ぜわしい日々を送っており、秋の訪れを心静かに迎えるいとまがありませんでした。

9月6日から13日までは、「チェルノブイリ救援・中部」代表団の通訳でジトーミル市とジトーミル州ナロジチ地区へ、19日から26日は広島の「ジュノーの会」の代表Kさんの通訳で主にキエフ市内の医療施設とチェルノブイリ被災者団体を訪れ、その直後28日、ベラルーシからキエフに来られた京都大原子炉実験所のIさんを同じ被災者団体にお連れし、30日には、料理研究家のOさんを私の大家Sさんに紹介し、Sさんの息子さん宅の台所でウクライナ料理のさまざまの作り方をお見せする現場に立ち会ってお相伴したあと、午後にはキエフ言語大学で、第11回ウクライナ日本語弁論大会大学生の部の質問者の一人という役割を演じました。

そして10月19日には、山口県宇部市のやはりチェルノブイリ救援団体「ドゥルージバ」の企画で、「キエフ・ナイチンゲール合唱団」という少女合唱団(以前、本稿でちらと触れましたが)と日本に行き、11月20日まで、西日本各地でのチャリティ・コンサート・ツアーの通訳をします。ああ、ここまで書いただけで、意味もなく疲れが出てしまった。

劇的な天候の変化

もともと、忙しいのが好きではないのに、またしても貧乏暇なしの生活に入っていく私……。ま、別に、他人のせいではないんですけど。そうこうするうち、10月半ばになって劇的に天候が変化し、これを書いている17日には、日中の気温が2℃程度でした。

アパートの集中暖房は未だ入っておらず、集中給湯のお湯も今ひとつ(今ふたつ?)心細いぬるさです。11月下旬、私が日本から帰ってくる頃には、どうなってるんでしょう。(天気と暖房の状態の両者が、私の気掛かりです。念のため。)

Sさんの約束のボルシチ

で、この間の出来事を、順不同に思い出してみることにします。

比較的記憶に新しい9月30日のことから始めますと……そもそもは、以前キエフの日本大使館で働いていたTさんから私にメールがあり、彼女のロシア料理の先生であるOさんが、ウクライナ・ベラルーシ・モルドヴァを訪問されて、各地の家庭料理を研究される、ついては私の大家Sさん(Tさんの友人の記者が、愛知万博を取材した折、ウクライナ館のレストランで彼女にインタヴューしたんだそうです)にウクライナ料理の作成現場(?)を見学させてもらえないか、ということでした。

Sさんは日本がとても気に入り、また日本で働けるあてはないか、と私に尋ねていたことは、本稿でも書いた通りです。それで、こういう話をしても、いやとは言われないのではないかと思い、問い合わせてみたところ、「喜んで」というお返事でした。

4年半前に、今私がこれを書いているアパートを借りることになった時、彼女はとあるカフェのコックをしているということでしたが、現在は最高会議と内閣に付属する厨房で働いているのだそうです。以前から、「私のボルシチをいつか食べさせてあげる」と言われていたのですが、お互い忙しく、ほとんど忘れていたその約束がこういう形で実現するとは思いもよりませんでした。

Oさんのロシア料理のご本

Sさんのボルシチもたしかに美味でしたが、ジトーミル州の田舎の診療所などで出されるものの方がより素朴で、私などの舌には合っているような気がしたのは、2人のプロを前にして緊張していたせいでしょうか。お二人とも、ごく気さくな方ではあるのですが。

Oさんからは、紹介のお礼として、大判で写真がふんだんに入ったロシア料理のご本と、ヴァレーニエ(ロシア風ジャム)の小瓶の詰め合わせをいただき、レストランでの夕食にも招待していただきました。Oさんは過去15年ほど、ロシアとその周辺諸国を訪れて料理の研究をされているということで、いろいろ興味深いお話を聞けました。ご本には、レシピばかりでなく、素朴で暖かいロシアの庶民の生活文化が映し出されているようで、それはOさんのお人柄の表れでもあると思います。

多様なテーマの弁論大会

で、この日、午前中にそそくさとボルシチやサラダをお相伴してお腹いっぱいになった後、かつての職場キエフ言語大学に急ぎ、大学生の弁論大会(キエフの学生8名、地方の学生5名)の質問者を務めました。

ほぼ毎年のようにこの弁論大会には顔を出しているのですが、今年の弁論はけっこう面白いものが多く、映画『ゴジラ』に見る戦後日本の世相、「ゴスロリ」ファッションの女の子たちの心理分析(について語った人は、自らその凝った衣裳に身をかためていました)といったテーマのものもありました。環境問題に触れたスピーチも1つあり、アゾフ海の汚染を大きな問題として取り上げ、エコロジーに対するウクライナ国民の関心を喚起することの必要性を説いていましたが、チェルノブイリの話は出てきませんでした。

何例もある移住者の一家滅亡

Kさんと、プリピャチからの移住者の団体「ゼムリャキ」を訪問した際には、ほぼ移住者だけで占められているある集合住宅の住人から、隣人のうちすでに一家全員が亡くなっている例がいくつもあるという話を聞きましたが……。

ある家族の場合、まず母親が病気で亡くなり、ついで父親が首吊り自殺、息子夫婦の子どもは死産、その後息子も病死、再婚した嫁は新しい夫とうまくいかずドラッグに手を出して中毒死、ということでした。

この話をしてくれた方が、知人のチェルノブイリ被災者(移住者や事故処理作業者)65人の死因を統計化したところ、次のような結果になったそうです。

チェルノブイリ被災者の死因の統計化の一例

脳卒中?20% 心筋梗塞?28% ガン?35% 自殺?10% その他?7%

 この数字は、被災者の死因に関する他の統計ともほぼ一致しているとのこと。

 また、ガンの疑いがある人でも、病院の診断機器が老朽化しており正確な判断ができない、また検査を無料で受けようと思うと順番待ちに時間がかかる、病院をたらい回しにされ診断がそれぞれ異なるので誰を信用したらよいのかわからない、などの理由で、治療を始める前に病気が進行してしまう例が多いという話もありました。

夫が慢性リンパ性白血病に罹っているものの、早期発見で治療が順調に進んでいる、という方の話も伺いましたが、この人はたまたま放射線医学センターの血液病セクションの医師と親交があったということで、例外的なケースというべきでしょう。また、手術に際し、執刀医と麻酔医に多額のお礼を包むのが慣習化しているということも聞きましたが、これは以前からあった話です。

医療の一貫したシステムの欠如

Kさんは、被災者のための予防的検診・診断・治療という一貫したシステムが実質上存在していないこと、また各医療施設の横のつながりが薄く、現場の医師が自らの持ち場を超えて医療行政の総体についての関心を持つことがまれであることを憂慮しておられましたが、確かにこれはウクライナにおいて大きな問題であり、また、一般的に言って、被災者自身がこの現状を変えるために立ち上がるという余裕を持てないでいることも事実です。

ジトーミル州の団体「チェルノブイリの消防士たち」が、非常事態省に働きかけ、非常事態省ジトーミル州支局医療センターを開設して、事故処理作業者や汚染地域での消火作業にあたる消防士たちの定期検診を独自に行おうとしているのは、一つの解決策ですが、この団体の代表がチェルノブイリ事故時のジトーミル州消防局長であり、彼らに非常事態省の後ろ楯があることは、キエフの移住者たちにない条件といわなければなりません。

次回の通信まで

先に書きましたように、10月19日からひと月、通訳の仕事に入りますので、次回の通信は12月初めになってしまうかもしれません。

十数ケ所でのコンサートのほか、学校や病院などでの交流会も予定されており、またこれまで私が行ったことのない壱岐や宮島、ずいぶん昔に訪れたままの熊本や萩、死ぬまで行くこともないだろうと思っていた(失礼)ディズニーランドなどの観光もあるそうで、合唱団の子どもたち10人、指揮の先生、ピアノ伴奏の先生と、阿蘇から東京までの日本各地をあちこちします。

一方、「東海ウクライナ会」の招きで7月から10月まで主に中部地方に滞在、やはりチェルノブイリ・チャリティ・コンサートを行っていた民族音楽バンド「コザチェニキ」が11日ウクライナに帰国、「チェルノブイリ救援・中部」の支援するジトーミル市の小児病院のミルク代として、募金を提供していただけることになりました。それぞれ全く独立して企画されていたことなので、結果として私がその両者にすれちがい的(?)に関係することになったのは、なんだか不思議な気がしますけれども。それじゃまた。(2006年10月17日)
                                       竹内高明(キエフ在住)