No.27




学年末試験の監督を終えて

7月末、私は週3コマだけ1年間、3年生に日本語を教えたキエフ国立大学での仕事を終え、2クラスそれぞれの学年末試験の監督もすませました。

試験は主に口頭で行い、学生1人ずつに違う問題を出し、その日のうちに成績もつけてしまうため、日本語科のように1クラスの人数が十数人であっても相当時間がかかります。教師によっては、朝から晩までかけて試験を行う人もあるようです。

監督はやはり3年生の担当だったZ先生(30代女性)と一緒にやったのですが、1つのクラスにはどう考えても不合格の成績をつけざるを得ない学生が2人いました。

コネと袖の下で難なく進級

2人のうち1人は私の授業にはほとんど全く出席しなかった学生です。漢字もほとんど読み書きできず、そもそもなぜ彼らが3年生まで進級できたのかが不思議なのですが、いろいろ小耳にはさむ話から考えると、日本語科の属している「中国語・朝鮮語・日本語講座」がさらに属している言語学大学(この「大学」は単科大学を意味する単語で、その上部機関が総合大学としての「キエフ国立大学」)の学長にコネを持っている親、あるいは袖の下を惜しみなく活用する親がおり、その結果、現場で教師のつける成績に関係なく教務課が書類を処理して、学生が難なく進級していくというケースが存在するようです。

ウクライナの未来を憂う

学生にカネで成績を売るという教師もおり、その人の試験で5段階評価の4を得るためには50ドルを払えばよい、という話も聞きました。入学に際しても、カネとコネが相当程度ものを言うらしいです。

こういうことを書くのは、まっとうに優秀な成績で入学し、たゆみなく勉学に励んでいる学生や、誠実に職務を遂行している講師(そういう人たちも当然存在する)に対して大変心苦しいのですが、ウクライナを代表するべき高等教育機関でこういうことが今後も続けば、ウクライナの未来は明るくないのではないかと言わざるを得ません。

ここでも、キエフ国立言語大学と同じく、日本語を勉強している学生の大部分は女性、ウクライナ人日本語講師7人中5人は女性です。

元抑留者の植えた桜の樹・キエフ市立病院医師との交流

キエフ大学で私が担当した試験の最後のものが終わった1週間後の626日には、山口県宇部市のチェルノブイリ救援団体の代表Mさんがキエフに来られ、私は29日早朝までの同氏の滞在のお世話をしました。

Mさんの83歳だったかの父君は、第2次大戦の敗戦後ソ連軍の捕虜となり、行き先も告げられないまま列車に乗せられてウクライナ東部のドゥルシコーフカ市まで運ばれ、2年間抑留されていたそうです。

6,000人の抑留者は黒パンとジャガイモで露命をつないだものの、600人ほどが亡くなった由。(黒川祐次元ウクライナ大使が著した『物語 ウクライナの歴史』では、「1946年に約4,000名がシベリア経由でウクライナに移送された」とあります。)

ソ連崩壊後の92年、「カルトーシカ同友会」を結成していた元抑留者の方々はウクライナを訪れ、ドゥルシコーフカ市の大祖国戦争記念碑のある丘の上に桜を植え、5年後の97年に再訪したところ、桜の樹は根を下ろし葉を広げていました。

この97年には、Mさんらの支援しているキエフ市の市立小児病院の医師たちとMさんの父君ら元抑留者の方々が会食・歓談し、高齢の日本人男性らが披露する盆踊りや日本民謡は、医師たちの談話によれば、ウクライナの人々に強い印象を残したようです。

let my people go ウクライナの革命に関する15のテクスト』

さて、前回にちらと書きました作家オクサーナ・ザブシコの本(let my people go ウクライナの革命に関する15のテクスト』)を私はついに購入、やはり地下鉄の中でちびちびと読みました。書名は、旧約聖書出エジプト記第3章の神の言葉、「我…汝をしてわが民イスラエルの子孫をエジプトより導きいださしめん」 に基づく黒人霊歌の歌詞から採られたものです。

20041024日発信の呼びかけ文「キエフからの手紙」、ヨーロッパやロシアの各紙掲載の記事とインタヴューに始まり、2005417日ニュー・ヨークでの第1回世界作家フェスティヴァルでのスピーチや、日記からの断片をはさんで、40数ページの「小説」で終わっています。

オレンジ革命についての意見・サブシコの文体

ヤヌコーヴィチとユシェンコの対決は、ウクライナの東と西あるいはロシアと西側諸国の対立でなく、民衆と権力に寄生する「ならず者」たちとの対立であり、ユシェンコは民主化を求める人々にとってのシンボル的存在である、とするオレンジ革命に際してのザブシコの意見は、当時の私の考えに重なりますが、時折「故郷に容れられぬ預言者」っぽく高まるトーンでウクライナの政治・文化の貧困を批判する彼女の文体は、私の趣味とはやや異なります。

とはいえ、これらの問題に対する関心の切実さを問われれば、胸にやましさを感じないでもない外国人の身として、ただ文体の好みを云々するのは失礼かもしれません。巻末の小説は、ほぼ作者の代弁者である男女の回想あるいは内的独白が交互に続くというもので、残念ながら、小説として特に感心するというようなできばえではありませんでした。

ザブシコの短編・中編小説を集めた本を以前書店で見つけ、開けてみるとなぜかザブシコのサインがあったので、なんとなく買ってしまったことがあり、その本はそのまま私の部屋でダンボール箱に入っています。

私の、買った本を読む順番は非常に気紛れなもので、書籍Aを読みかけては書籍Bに移り、その後C・D・・・を経て書籍Aに戻るまでに、何年もかかることがまれではありません。

『ソロミヤ ソロミヤ・パヴルィチコの思い出』

やはり前回に触れたパヴルィチコの追悼文集(『ソロミヤ ソロミヤ・パヴルィチコの思い出』)が最近出て、私はそれを買いました。

現代ウクライナ文学界の錚々たる作家・詩人・評論家・演出家らが文章を寄せていますが、どうしてこの本がこの時期に出たのかは特に記されていないのでわかりません。

この人は1958年、ウクライナの著名な詩人ドムィトロ・パヴルィチコの娘として生まれ、キエフ国立大学のロマンス語・ゲルマン語学部を卒業、英米文学の研究者として出発した後、ウクライナの近代文学に関する革新的批評を次々と発表して文名を挙げ、カナダのアルバート大学やアメリカのハーヴァード大の夏期講座で講師を務めるなど精力的な活動のさなか、19991231日に事故死。

この日、「18991231日時点のウクライナ文学界を回顧する」という趣向の生放送TV番組に出演したばかりで、その記録も死後に出版された本に収録されています。

ソロミヤ・パヴルィチコの「事故死」

「事故死」というのが具体的にどういうことだったのか、彼女の没後発行・再刊されたどの本の序文や解説を読んでも明記されておらず(この追悼文集の序文でも、「19991231日キエフで夭折」という一文で片付けられています)、まだウクライナ語が大して読めなかった2000年初めの私は、彼女について知らなかったので、そのニュースについても記憶がありません。

彼女がコンピュータと車(を使用・運転すること)が大好きだったという話から、自動車事故か何かだったのかと勝手に想像していました。

ところが、ザブシコの『let my people go』に入っている日記断片の中に、この「事故」について触れた箇所があり、それから判断するに、アパート(「マンション」というべきでしょうか?)の隣室からのガス漏れによる中毒ないし爆発がもたらした死であろうと思われます。

ちなみにこの箇所には、欄外の注がついているのですが、「19991231日、自宅のアパートでの事故で亡くなったソロミヤ・パヴルィチコの死を指す」というだけの簡単なものです。

「病気」になったときの「病名」

あまり関係ないといえば関係ありませんが、ついでに書きますと……こちらのチェルノブイリ被災者の方と話す時に、「Aさんはガンで手術するそうだ」というような話題になることも残念ながらまれではないのですが、私が思うのは、日本人ならたいてい、ただ「ガン」というのでなく、「胃ガン」「乳ガン」と具体的に病名を言う(病名を気にする)のではないかということです。学生が体調を悪くして授業を欠席することを、他の学生が教師に告げる際にも、直訳すれば単に「病気になりました」というのがふつうです。日本語で「病気」というと深刻に響きますが、その病気というのは風邪やインフルエンザであったりします。

地下鉄の中で読む本

 さてそれで、私が今、前述の追悼文集を地下鉄の中で読んでいるのかというとそうではありません。主な理由は、ハードカヴァーの重い本だということです。

そのかわりに鞄に入れているのは、パヴルィチコの死後遺稿をまとめて発行された『ナショナリズム・セクシュアリティ・オリエンタリズム アガタンゲル・クルィムスクィイの錯綜した世界』です。1871年生まれ、1942年に流刑先のカザフスタンで病死した文人・東洋学者クルィムスクィイの著作を縦横に分析するこの本については、またの機会にご紹介します。

連立内閣組閣交渉時に見る政治家の表情

 で、人によっては「オレンジ革命の終焉」とも評されている、ヤヌコーヴィチ氏を首相とし、「我らのウクライナ」が仲間入りした連立内閣の成立ですが、これについては日本でも報道されているようなので説明は省きます。

最高会議は9月まで夏休みに入るので、新内閣の真価が発揮されたりされなかったりするのはまだしばらく先のことでしょう。

しかし、「オレンジ革命」の立役者の一人であり、昨年ヤヌコーヴィチ氏に近い東部の地方政治家を脅迫の疑いで起訴したものの結局有罪を立証できなかったルツェンコ内相(社会党)の留任が決まり、ヤヌコーヴィチ氏と共同記者会見した際のル氏の表情は、「憮然」という言葉を絵に描けば(画像に撮れば)こうもあろうかと思われるものでした。「自分はこれまで通りの仕事を続けるだけだ」とル氏は発言したそうですが。

ヤヌコーヴィチ氏が首相に指名されるに先立ち、大統領が発議した円卓会議での共同声明にただ一人署名せず、決然として野に下ったティモシェンコ氏の表情もなかなかの見ものでした。

連立内閣組閣交渉と連続TVドラマ

まあ、こういうTVの映像を単に面白がっているのは不謹慎だとは思いますが、延々と続いた連立内閣組閣交渉を連続ドラマにたとえるジョークは、雑誌などでたびたび目にしました。

最近まで放映されており、けっこう人気のあったロシア製の連続メロドラマ(仮に訳せば『美貌は生まれつきのものじゃない』)が、やはり視聴率の高い、別のTV局の夜のニュース番組と同じ時間帯に放映されており、この間チャンネルを切り替え続けた人も多かったとかで、それと関係あったのかどうか、後者のニュース番組は放送開始時間が1時間遅くなりました。

もっとも、連続ドラマの主人公の運命の転変に比べて、内閣とその政策の変化が視聴者の人生に与える影響はより大きいと言わざるを得ないでしょう。その代わり、連続ドラマのストーリーの展開に視聴者が参加する可能性は普通ゼロなわけですが、今後の国政に国民がどう反応していくか、そこが肝心なところです。(2006年810)


                                       竹内高明(キエフ在住)