最高会議選と統一地方選を控えて
2月に入り、「チェルノブイリ救援・中部」の代表団の仕事と大学の後期の授業がほぼ同時に始まってから、私はまたやたらに忙しく、ころころ移り変わった天候もはっきりとは覚えていません。
それでも少しずつ暖かくなり……とつい書いてしまいますが……3月初めにはプラスの気温になりました。しかし2月末からまたまとまった雪が降り、けっこう積もって、歩きにくい道路の状態です。
26日の最高会議選と統一地方選を控えて、街には政党宣伝の看板、パンフやリボン・小旗などのグッズを配布する選挙運動の小テントが目立ちます。しかし、大統領選に際して見られたあの熱い盛り上がりは感じられず、支持政党に関する世論調査の結果にもとりわけて変化はありません。この間のニュースをいくつか抜粋しますと、
キエフでは、1,500人の「出資者」から、新規に建造する集合住宅の1区画を各出資 者に提供するという契約にもとづいて資金を集めていた業者(ロシア生まれ、2005年 にウクライナ国籍を取得した人物)が、同一のマンションを複数の出資者に提供する という二重契約を行っていたことが発覚するや否や、金とともにすみやかに行方を くらますという事件がありました。
このような悪徳建築業者とキエフ市当局との癒着を指摘する声もあり、補償を求 めてキエフ市庁舎前でのピケも行われました。
市長は、建てかけになっている問題の集合住宅を完成する、と発言しているもの の、それは市長選までの一時的な約束にすぎないのでは、と疑いの目で見る被害者 たちは警戒を緩めていません。
A ウズベキスタン国民の強制送還
2月18日には、ウクライナ国家保安局が、政治的理由による難民認定を求めていた 10名のウズベキスタン国民を、同国政府の求めに応じクリミアから強制送還したこと に対し、国連難民協定及び拷問に反対する協定に反する行為として、国連その他の 人権保護機関からの抗議声明が行われました。
ウクライナのこのような措置に対し、「ウズベキスタン民主フォーラム」の代表は 、今やロシア以外の天然ガス供給国としてウクライナにとり戦略的に重要な位置を 占めることになったウズベキスタンへの外交的配慮だ、との見方を示しています。 強制送還された10名が、自国で投獄され拷問を受けることはほぼ確実とされていま す。
B アメリカの核燃料製造の技術協力歓迎の背景
やはり2月18日、アメリカの通商副大臣は、近い将来ウクライナに対して核燃料 製造の技術協力を行う用意があると発言、エハヌーロフ首相はこれに歓迎の意を表 明しました。
現在ウクライナで稼動している原発(4箇所の11基。電力生産の48%を占め、また 近隣諸国への電力輸出の大半を支えている)はすべてロシア製のものであり、そこで 用いられている核燃料も100%ロシアから輸入されています。その価格は、今のとこ ろ他国(チェコ、スロヴァキア、ハンガリーなど)に対してのものより低く抑えられ ているとはいえ、2010年にロシアの核燃料製造企業との契約が切れた後、「市場価格 」が要求されることになる可能姓が少なくないことは、記憶に新しい天然ガス紛争( ?)の示す通りです。
エハヌーロフ首相は、ウクライナでの核燃料完全自給システムの創立には53億ド ルの投資と12年の期間が必要としていますが、現在ウクライナでのウラン生産量は 、国内で使用される核燃料の3分の1をまかなうだけのものでしかなく、燃料・エネ ルギー省の試算では、2015年までにウランの自給をめざすことになっている由。
一方、ウクライナは使用済み核燃料の貯蔵・処理についても現在ロシアに依存し ており、しかしロシアの法律によって、2011年には処理後の放射性廃棄物がウクラ イナに返却されてくることになっています。
ウクライナの国営原子力発電企業エネルゴアトム社が、昨年12月26日、アメリカ のホルテク・インタナショナル社と秘密裡に固形放射性廃棄物貯蔵施設建設に関す る契約(3年内に1億2500万ユーロで建設)を結んでいたことが明らかになり、野党の 非難を集めていますが、問題の貯蔵施設の建設候補地は、チェルノブイリ原発周辺 あるいはフメリニツキー原発周辺が検討対象。
建設開始は、最高会議での承認を経た後になるとはいうものの、この貯蔵施設に 外国の放射性廃棄物が受け入れられるのではという懸念を諸野党は示しており、前 回の最高会議選で議席を失ったままの「緑の党」は、ウクライナの人気ポップス歌手 らの賛同を得て反対キャンペーンを展開する構えです。
もっとも、同様の固形廃棄物貯蔵施設は、ザポロージェ原発にすでに数年前併設 されており、その際の同党の抗議行動は結局功を奏さなかったという報道もありま したが……。
チェルノブイリ20周年取材ツアー
さて前回書いた通り、2月下旬には、日本の原子力文化振興財団が企画したチェルノブイリ20周年取材ツアーが行われ、日本の各新聞社が参加したそうです。しかし時間の制限などのため、思うように取材ができないというので、ツアーのスケジュールとは別個に独自取材をされた記者もあり、私はその何名かのお手伝いをしました。
事故被災者の共通の思い
キエフでは主にプリピャチからの移住者の方々のお宅を訪問しましたが、プリピャチの近くの村から移住したという方もありました。
事故前に生まれ、その後小児麻痺に罹ったという20歳の息子さんの介護と治療に、自らの健康をかえりみず尽くしながら、別れ際に「国を批判するような言葉は記事にしないで下さいね」と言った母親、また事故前から現在に至るまで、汚染地域での建設作業に従事しているという意気軒昂な社会党員の方、かつてソ連各地の原発の建設・始動に関わり、チェルノブイリ事故の原因は人的要素のみと言い切る65歳の技術者(彼のお母さんは、原発近くの村から避難させられた数日後に脳卒中で亡くなっており、ご本人・お連れ合い・末の息子さんが障害者認定を受けているという話でした)もいらっしゃいましたが、この事故の前と後で人生が変わってしまった、という思いはどの方にも共通するようでした。
英雄の必要な国
ジトーミル市では、事故処理作業者の団体「チェルノブイリの消防士たち」のチュマク代表に会い、86年5月23日に起こったチェルノブイリ3号炉と4号炉の間のケーブルの火災の消火活動を指揮したマクシムチュク氏(ジトーミル州出身、当時ソ連内務省勤務、のちモスクワ市消防局長)が、部下の被曝を防ぐため自ら2度現場に入って大量の被曝をし、8年後に47歳で亡くなったという話を聞きました。
この人は甲状腺癌と胃癌の手術を受け、健康を害しながらも最後まで勤務を続け、死後にロシア英雄の称号を受けたということです。それを聞いてからだいぶ経った後で私の頭に浮かんできたのは、たぶん20年以上前に読んだ、ブレヒトの『ガリレイの生涯』の一節で、ガリレイが宗教裁判にかけられ自説を否認した後、弟子が「英雄のいない国は不幸だ!」と叫ぶのに対し、ガリレイは「ちがうぞ。英雄の必要な国が不幸なんだ」と応える、というくだりでした。
「原子力の平和利用」実現の課題
文脈が、多少、異なるという気はしますが。広島出身のS記者は、被災者インタヴューに際して必ず「原子力発電に関するお考えはいかがか」という質問をしており、それに対して明確に反対の意思表示をしたのが、チュマク氏と、チェルノブイリ5・6号炉の建設現場でトラックの運転をしていたという女性(今は17歳の孫娘と、キエフのアパートで二人暮らし)くらいだったことに、意外の念を隠しませんでした。
事故前のソ連で、「原子力の平和利用」に対する否定的な情報が市民に全く与えられていなかったことも、そういう結果を生んでいる理由の一つかもしれません。しかし、この事故のもたらした巨大な悲惨が、核と原子力の使用に伴うさらに大規模な破壊の歴史の一部であることと、その全体をおしとどめることの必要に思いを致し、その実現に力を添えるのは、被災者ではない私たち自身の課題ではないかという気がします。(2006年3月7日)
竹内高明(キエフ在住)