No.23
寒波による事故・支障

ウクライナでは、120日ついに気温零下20℃以下の寒さが訪れました。その後しばらく続いた厳寒の間に、ある地方都市では集合住宅の老朽化したガス管が低温のため破裂、爆発が起こって多数のけが人が出るという事件が発生。
 別の町では
122日、集中暖房のスチーム配管網で、やはり寒さのため支障が生じ、約6万人が集中暖房なしの生活を強いられるという事態が生じました。
 大統領は後者の町
(ルガンスク州アルチェフスク)を視察、現地の行政は総辞職に値するとの叱責のコメントを発表したとか。

日常生活の工夫
 
 やや寒さの緩みかけた頃、所用で知人宅にお邪魔したところ、「アパートに電気ヒーターがないのなら、寒い時にはこれを使いなさい」と、厚さ
1cmの鉄板2枚をいただきました。これを台所のガスレンジで焼けば、しばらくの間放熱して暖房の役割を果たす……ということです。
 幸いにその後、この方法を試すところに追い込まれるほどの冷え込みはなく、
2月初めには気温がプラス2℃にまで達し、歩道上の根雪が解け始めました。
 しかしその後再度寒波が到来、マイナス
10℃ほどの外気温になり、2月半ば現在はマイナス5℃程度。
 アルチェフスクでは、未だに集中暖房の復旧しない建物が残っており、同市の学校の生徒たちは他地方のサナトリウムに送り出され、一時的に親と離れて学業を継続しています。

ショスタコーヴィチ生誕100周年記念全交響曲ツィクルスコンサート

 厳寒が始まって間もなくの122日、フィルハーモニー・ホールで、ショスタコーヴィチ生誕100周年記念全交響曲ツィクルスの最初のコンサートがあり、私は幸いに時間があったので、シレンコ指揮国立交響楽団の演奏による交響曲第4番を聴きに行きました。
 最初に演奏されたモーツァルトのハ短調ピアノ協奏曲
(K.491)は、独奏者が、なんというか、ほとんどおざなりな音の出し方をしており、正直なところ神経にこたえる出来栄えでしたが、休憩後のショスタコーヴィチになると、オーケストラ(と聴衆)の緊張が一気にはりつめ、別世界のような音空間が現出しました。
 この曲は
1936年、初演のためリハーサルまで行われたものの、「党」からの抑圧で日の目を見ず、やっと1961年に初演が実現したという曰くつきの作品です。その後新聞で見た批評によれば、ウクライナのオーケストラは過去に第4番を演奏したことがなく、ウクライナでのこれまで唯一の演奏は80年代半ば、ロシアの指揮者とオーケストラによるものだった由。
 
オーケストラ・演奏会の現状

 以前マーラーの全交響曲ツィクルスを企画したシレンコ氏が、マーラーの影響を強く受けているといわれるこの第
4番を、ショスタコーヴィチ・ツィクルスの初回に選んだのは自然といえば自然でしょう。
 同じ記事のインタヴューで、シレンコ氏は、彼のオーケストラの楽器が
30年も更新されていないこと(キエフのフィルハーモニー・オーケストラには、日本外務省の支援で、ヤマハの管楽器が供与されたことは以前書いた通りです)、またかつてと違い、現在キエフで外国の優秀な指揮者の演奏に接する機会がないことを率直に認めています。
 ソ連時代には、バーンスタイン、ストコフスキー、オーマンディといったアメリカの指揮者たちが、アメリカのオーケストラと客演、またはソ連のオーケストラを指揮する姿がキエフでも見られたのだそうです。

歯医者への付き添い

 そのあと、寒さが緩んでからの21日には、キエフ工業大学の図書館内にある「日本センター」で、「日本関連セミナー」の第2回として、群像社から出た『現代ウクライナ短編集』の共訳者の一人であるオリガ・ホメンコ氏のお話があり、私は誘われて行ったのですが、その前に、キエフのサーカス・演芸短大でジョグリングの勉強をしているH君に付き添って歯医者に行くという用事がありました。
 
1月下旬、H君の親知らずが痛むということで、私は以前自分が治療を受けたことのある私営の歯科医院にH君を連れて行ったのですが、レントゲンを撮ったところ、「抜くしかない。しかし、抜歯が許可されているのは外科の免状を持った医師だけだが、そのような医師はこの医院にはいない。早く問題を解決したいなら、連絡して外科の先生に来てもらうが」との見立てでした。
 
ウクライナでの抜歯

 
H君はその場での抜歯を望み、20分ほど待つと、キエフ医科大学歯学部の助教授が登場。「絶対に痛くないから」と自信にあふれる態度で麻酔注射をし、やがてH君の口中に一本の金属棒を挿入したかと思うと、難なく親知らずを抜いてしまい、すべてが終わり。ロシア語でいうところの「黄金の腕」を思わせるお手並みでした。
 抜歯そのものは
250グリヴナ(1ドル=5.11グリヴナ程度)、その他麻酔代等が数十グリヴナほど請求されていたと思います。しかしこの際、他の虫歯も発見され、その治療が引き続き21日に行われたわけです。
 この日も治療そのものは順調に行われました。ただ、なぜかしら麻酔の効きが悪く、
H君が治療時の痛みを訴えたため、合わせて3本の麻酔注射をし、その都度薬が効くのを待っていたので、私が「日本センター」に着いた頃には、ホメンコ氏のお話そのものは終わってしまっており、隣室で飲み物の入った使い捨てコップを手に参加者たちが歓談しているところでした。   

「日本関連セミナー」に出席して

私はホメンコ氏に挨拶だけさせていただき、氏から『現代ウクライナ短編集』を寄贈された日本大使館のMさんに、本を見せてもらいました。すると、翻訳されている作品のほとんどは、私が昔買ってそのままになっていたアンソロジー『暗い部屋の花々 現代ウクライナ短編集』(1997年キエフ刊)から採られたものでした。このアンソロジーはドイツ語にも訳されている由。興味のある方はどうぞご覧になってみて下さい。セミナーのレジュメによれば、ホメンコ氏は、東京大学で「広告を通して見た、戦後日本社会の形成とジェンダーの新しい理解」をテーマに研究をされた方ということです。

著名な文学研究者タマーラ・グンドローヴァ氏の新著


















それから間もなく、新聞を見ていると、ウクライナの
著名な文学研究者タマーラ・グンドローヴァ氏の新著『チェルノブイリ後の文学遺産 ウクライナ文学のポストモダン』の案内が出ていました。
 グンドローヴァ氏が
2002年に出した『FEMINA MELANCHOLICA(憂鬱なる女) オリガ・コブィリャンスカのジェンダー・ユートピアにおける性と文化』は、私の本棚にもあります。
 当時オーストリア・ハンガリー帝国の東の辺境であり、現在はウクライナ南西部に位置するチェルニフツィに生まれたコブィリャンスカ
(18631942)を扱ったこの本は、「通過儀礼:『新しい女』の誕生」「女性によるプラトニック・ロマン:理想的なコミュニケーションを求めて」「女性のセクシュアリティの解剖学(ナルシシズム‐ヒステリー‐マゾヒズム)」といった各章の見出しを並べてみただけでもおわかりのように、いまどきの欧米の哲学的・心理学的・社会学的文学批評の必殺の武器を次々と繰り出し、絢爛たる博引傍証で読者を恍惚とさせるに足るものです。
 が、あまりにも博引傍証が過ぎて、筆者の力みが仄見えるというのか、自らの研究対象を押さえ込むワザの巧みさにひょっとして少しばかり気を取られているのかしら、というかすかな勘ぐりを、浅学な読者の胸中に抱かせるきらいがないでもありません。

チェルノブイリと社会主義リアリズムの崩壊

 それはさておき、記事の紹介によれば、この新刊では
1980年代から90年代にかけてのウクライナ文学が扱われ、「チェルノブイリはソ連の全体主義的意識の崩壊のプロセスと時を同じくして起こり、人々の意識と文学そのものの変化が起こる象徴的背景となった」との主張がなされている由。
 記者は、「チェルノブイリは、ソ連システムの、そして芸術上の手法というばかりでなく帝国主義的社会の生活様式・世界観となった社会主義リアリズムの崩壊の背景となったのと同程度に、その崩壊の触媒ともなったのではないか」と付け加えています。この本を、いくつかの書店で探してみましたが、今のところまだ見つかりません。見つけて読めたらまたお知らせします。

チェルノブイリ20周年取材ツアー

さて、2月下旬には、日本の原子力文化振興財団というところが、日本の大手マスコミを対象にチェルノブイリ20周年取材ツアーを企画しているそうです。私は、参加される記者の方数名に、ツアーの日程とは別にお会いできそうなので、ツアーでの取材の内容を伺ってみたいと思っています。(2006年216)

                                           

                                       竹内高明(キエフ在住)