ウクライナとロシアの、天然ガス価格をめぐる年末年始の交渉とその結果については、日本のマスコミでも報道されたようですので、ここでは省きます。
「日本の新聞のサイトでも、この件は逐一報道されていたようだ」とこちらの友人に話したところ、一人は「なんで日本のマスコミがそんなことに興味を持つんだ?」といぶかり、もう一人は「ま、マスコミには、いつでも何かしらニュースの種が必要だからね」という反応でした。
前者(30代前半男性)は、新年の飲み会――というのは、元気のいい若者の場合、12月31日の晩から1月1日の朝まで続くわけですが――の仲間に加わっていたロシア国籍の女性(夫君はウクライナ人)を、ガス問題をネタにして冗談まじりにみんなでいびった由。後者(やはり30代前半の男性)は、経済大学でマクロエコノミクスを教えており、かつて経済省から引き抜きの声もかかった人物ですが、今回のガス事件の内幕は彼にもよくわからないと話していました。
ロシアに対する嫌悪感、政治家への不信感増大の懸念
3月の最高会議選挙をにらんで、ロシアの仕組んだ政治的工作なのか、あるいはガス利権に関わりを持つウクライナとロシアの政治家が共同で作成したシナリオなのか。 いずれにせよ、この出来事の結果、ウクライナ国民の一部の間ではロシアに対する嫌気がいや増し、また多くの人は、庶民の関知・関与できないところで行われる政治・経済ゲームへの、そしてそのフィクサーである政治家たちへの不信感をさらにつのらせたのではないかと心配します。
ちなみに、ジトーミル在住のある知人と電話で話した時の彼の新年の挨拶は、「この年がせめてまともなガス圧をもたらすように!」(直訳です)というものでした。同じ人がメールでくれた年末の挨拶は、「戌年がイヌの幸福でなく、人間的な幸福をもたらしますよう!」でしたが。
視覚的イメージに訴える政党宣伝
私は、ニュース番組のほかはTVをほとんど全く観ていないので、わからないのですが、エコノミストの友人によれば、どのチャンネルを回しても、ヤヌコーヴィチ氏率いる「地域党」の政党広告が流れており、今回同氏はソフトな笑顔にイメージ・チェンジしていて、「地域党が多数の議席を獲得し、ヤヌコーヴィチが首相となったあかつきには、大統領ユシェンコ氏と和して国民の利益のために尽くす」といったPRをしているそうです。
街なかには、「ユーリヤ・ティモシェンコ・ブロック」の、白地に赤いハートのシンボル・マークが描かれた宣伝看板、最高会議議長リトヴィン氏の「人民党」の広告ポスター(「我ら」という言葉と、庶民の家族や工場労働者などの写真があしらわれているもの)など、諸政党の宣伝が目立ちますが、政策よりも視覚的イメージや、比例代表リスト上位の人物(ボクサー、歌手、TVキャスターなどを含む)の知名度をアピールする傾向があからさまです。
正教のクリスマスの日
そういう(?)正月が過ぎて7日になると、正教のクリスマス。
私は信心のない人間として、6日の宵にアルコールを少し飲みながら、日本語の文語訳聖書と知人のくれたロシア語訳聖書を対照して、イエス・キリスト誕生のくだりを読むのが例年の習慣です。
ロシア語の聖書は、アメリカの慈善家をスポンサーとしてアメリカの大学に行き、アメリカ人青年と結婚した、知人の娘さんが、実家に置いていったものだそうで、マタイによる福音書はそれなりに気を入れて読んだ気配があり、あちこちに蛍光ペンで線が引いてあります。ただし、聖書の他の部分には、蛍光ペン等の記入の跡はありませんが。アメリカ国籍取得の手続き中だという彼女は今、カリフォルニアの青い空の下で、英訳の聖書を読んだりする時もあるんでしょうか?
メトロミュージシャンの歌を聞きながら
それはともかく、7日キエフの地下鉄――といっても、私が利用する東西の路線の場合、ドニエプル河の左岸では地上を走っています――に乗っていると、いつも「左岸駅」と「水上公園駅(ドニエプル河の中洲の島にある駅)」の間で営業しているメトロ・ミュージシャン(?)の若者2人組が乗ってきて、ギターと笛を鳴らしながら、「……喜べ、神の子生まれたるによりて」と歌い始めました。
これは映画『忘れられた祖先の影』(セルゲイ・パラジャーノフ監督、1964年/ムィハイロ・コツュブィンスクィイ原作[1912年])でも歌われているもので、ウクライナ民謡だろうと思いますが、ウクライナのフォークロアに関し私は無知なので、詳しいことは言えません。
そこかしこで起きる金属性の音から察して、若者の一人が下げているヴィニール袋には、小銭を入れる人がいつもより多いようでした。その歌を聞いていると、なんだかまさに今日イエスが生まれたかのようで、こういう歌やクリスマスの儀式というのは、単に歴史的な出来事としてのキリスト生誕を記念するのでなく、時空を超越した(?)顕現としてのキリストが、この世界にあらわれ、今も我々とともにあり続けるということを確認するものなのでしょうか。
不信心の私なので、勝手なことを言ってるだけなのですが。前にも書きましたように、広島やチェルノブイリが、同様に時間を超越した、「歴史内にして歴史外の出来事」のように思える……というのは、さらに牽強附会になりそうなので、やめます。
チェルノブイリ救援団体のチャリティ・コンサート・ツアー企画
暮れの12月25日にキエフに来られたIさんは、山口県のチェルノブイリ救援団体の方ですが、カトリックの信者で、前日泊まられたウィーンでは教会のミサに行かれたということでした。でもこの時期にウクライナに来られるのは初めてで、正教のクリスマスが1月7日であることはご存じなかったそうです。
Iさんの団体は、2006年秋、日本にキエフの少女合唱団を招いてのチャリティ・コンサート・ツアーを企画しており、Iさんと同行のHさんの通訳をした私は、キエフ市内の音楽学校に行って、同合唱団のデモンストレーション・コンサート(?)を聞きました。
ウクライナ民謡、チャイコフスキーのオペラの合唱、ウクライナ現代の合唱曲などレパートリーはさまざまでしたが、指揮者の先生は、「子どもたちはみな、日本に招かれることを喜ぶとともに大きな責任を感じており、ウクライナとその文化を日本の方々に知っていただくために最善を尽くします。また、自分たちのコンサートがチェルノブイリ被災児童の医療支援のためであることも理解しています」と話していました。
互いの歴史・文化を知り、楽しむ交流
「国を代表して……」という「使命感」は、正直言って、私は苦手です。スポーツの国際試合とかオリンピックとかに興味が持てないのも、ほぼ同じ理由によると思いますが、ほとんど生理的なもので、どうしてそうなのか、あまり深く考えたことはありません。
しかしIさんの考えは、「ただチェルノブイリの被災者に同情するというのでなく、現地の事情、歴史、文化を知り、その文化を楽しみ、その感謝の気持ちが支援になるのであってほしい」ということで、それには私も同感できます。
日本語の「国際交流」という言葉には、どうも、やはり「国」の壁が前提として感じられますが、日本でもこの頃は「民際」という言葉が使われるようになっているようですね。
それはそれとして、合唱団の子どもたち(9歳から17歳)はみな刺繍のはなやかな民族衣装をつけ、頭には花輪(つくりものです。もちろん)をかぶり、リボンを垂らしていました。大きな口をひきしめてにっこり笑う顔が、○○屋のペコちゃんにそっくりの姉妹がいたのが印象的でしたが、それは私のごく個人的な感想です。
コンサートの後で、Iさんは子どもたちに質問をし、特に訪日時のことを考えてでしょう、「好きな食べ物」という質問がありましたが、ピザやスパゲッティ、ハンバーガーなど、あまり民族的とはいえない答えも多く、「ファースト・フード・チェーンの展開する味覚の帝国主義」はこの国をも侵しつつあるようです。「好きな課目」という質問には、意外に「代数」と答える子が多かったのですが、先生が優秀なのかどうか。
エハヌーロフ内閣不信任決議の持つ意味
10日の、最高会議によるエハヌーロフ内閣不信任決議は、実質上、選挙を控えた野党が国民の不満をテコに政府との対決姿勢をいっそう鮮明にしたというほどの意味しか持たず、政府はこの決議を憲法の要請を満たさないものとして無視する構えを見せており、たとえ退陣したとしても、選挙まで「代行内閣」として機能しつづけることに変わりはないものとみなされています。
他になにか意味があるとすれば、不信任決議に賛同した「ユーリヤ・ティモシェンコ・ブロック」が、選挙後「我らのウクライナ」と連立内閣を組む可能性がほぼ消失したということくらいでしょう。(2006年1月9日〜11日)
竹内高明(キエフ在住)