No.18

 心地よい黒海の眺め

私は3週間ほどの日本滞在のあと、8月末から10日間ほどキエフを離れ、「チェルノブイリ救援・中部」メンバーのお二人の個人的なウクライナ訪問のお世話をしていました。「救援・中部」の仕事でいつも訪れているジトーミルでのチェルノブイリ被災者関連の会見のほかに、オデッサとヤルタでの観光があり、好天に恵まれたこともあって、光の粒を水面にはねかえす黒海の眺めは目に心地よいものでした。昨年秋に、「広島世界平和ミッション」の方々と、黒海艦隊(今では、ロシア軍とウクライナ軍に分かれている)の基地があるセヴァストーポリを訪ねて1泊したことがありましたが、そのときには海をぼんやり見るという時間はなく、この夏の日本でも、海は東海道線や山陽本線の鈍行列車の車窓から垣間見る程度だったので。

9月2日−オデッサの誕生日

オデッサの町は街路が格子状に整然と交差しており、キエフに比べれば高層建築はごく少なく、古ぼけた外見の23階建ての建物がならんでいて、そういう点だけをとりあげればちょっと京都みたいですが、私たちがオデッサに着いた翌日(92)は「オデッサの誕生日」というので町を挙げての祝賀の催しが行われていました。この町は創立211年になるということです。港へと下る、有名な「ポチョムキンの階段」は、写真で受ける印象に比べればそれほど大きなものではなく、上から見下ろすと、階段を下りきって道を渡ったところにある、港の入り口にあたる建物の「緑の党」と「ユーリヤ・ティモシェンコ・ブロック」の事務所の大きな掲示が目立ちます。

ヤルタの印象

ヤルタでは、チェーホフが晩年の5年間を過ごした家を見学し、彼の仕事部屋や、ラフマニノフも弾いたというピアノ、ゴーリキーがよく座っていたという庭のベンチなど見ました。それで例えばチェーホフの作品に対する私の読みが深くなり、ラフマニノフの音楽をよりよく理解できるようになったかといえば、正直なところあんまり関係ないのではないかという気がしますが。やはりヤルタの郊外にある、1945年にチャーチル・ルーズヴェルト・スターリンの会談が行われた宮殿(ニコライ2世が造らせた)にも行き、ドイツの戦後処理やソ連の対日参戦などが取り決められたという部屋にも入りました。この宮殿をとりかこむ、海を遠景に持つけしきのほとんどうっとりするような美しさと、そこで決定されたことがらのもたらした陰惨な結果とが、頭と心の別々の層に変な浸み通り方をするようで、その居心地の悪い後味が今も残っています。クリミア・ハン国の築いた宮殿が残っているバフチサライにも行き、宮殿内の「涙の泉」のそばに立つプーシキンの胸像も見ましたが、この宮殿を描写したプーシキンの詩について、さわりをどこかで見ただけの私は、芭蕉の句碑みたいなもんかなあと変な連想をしてしまいました。要するに、建築一般に対する感受性が私には不足しているのかもしれません。しかしクリミアの山と海の風景の美はたしかに印象に残り、むかし学生の頃、鎌倉の海を見に東京から何度かでかけた時のことを脈絡なく思い出したりしました。

 オレンジ革命後の変化を実感 

私がそういう観光旅行をしている間に、キエフでは95日、国務長官ジンチェンコ氏が記者会見を行い、国家保安・防衛会議議長ポロシェンコ氏・大統領補佐官トレチャコフ氏らが権力を私の利益のため濫用していると批難した上で辞職するという事件が起こっていました。8日にはユシェンコ大統領がポロシェンコ氏の罷免とティモシェンコ内閣の解散を発表(トレチャコフ氏に関しては、「一時的解職」という扱い)9日夜には、統一社会民主党系のTV局「インテル」で、ティモシェンコ氏をスタジオに招き独占インタヴューを行い、諸TV局・新聞社の記者が氏に質問を浴びせるという生中継番組が流れ、高い視聴率を稼いだといいます。私もたまたま見ましたが、クチマ大統領時代には考えられなかったパターンの報道で、これはたしかにオレンジ革命後の(残念ながら、それほど多いとはいえない)好ましい変化の一つです。もっとも、現在は野党の統一社会民主党と、この間の出来事の総演出者ともいわれるティモシェンコ氏の利害がたまたま一致しただけという可能性も大いにあり得ますが……。

9月5日後のキエフ情勢の推移の評価

この一連の情勢の推移については、各メディアがさまざまな評価を下していますが、@現政権の発足当時から取り沙汰されていた「ユシェンコ−ポロシェンコ」対「ティモシェンコ」の対立が、物価上昇・経済成長の鈍化・「再民営化」問題のこじれ・外資導入の遅滞などによる国民の不満の高まりとともに限界に達したということ、A来年3月の最高会議選挙に向けて各政治勢力の駆引きが激化するであろうこと、Bティモシェンコ氏の現政権への影響力が消滅するのに対し、公にはポストを失ったポロシェンコ氏の、大統領に対する影響力は存続するであろうこと、C現行憲法下の大統領の権限の多くを最高会議と首相に委譲する「政治改革」実現の見通しがますます不透明になってきたこと、などについては、およそ意見が一致しているようです。首相代行には、かつてユシェンコ氏の首相在任中に副首相を務め、今年4月からはドニエプロペトロフスク州の行政長だったエハヌーロフ氏が任命されました。最高会議選まで、政治的野心とは無縁に大統領の意に沿い、経済の安定化に努めるべく抜擢された人材であろうという点でも、メディア上の評価は一致しています。12日現在、新内閣の顔ぶれはまだ未定ですが、何人かの閣僚の留任の可能性も指摘されています。

キエフでふたたび日本語教師

 キエフに帰ってくるなり、そういう報道を追いながら、国立キエフ大学の日本語学科での新学年の授業の準備をしなければならず、私は息切れのする思いでした。そう、私は、4年前に縁を切ったつもりだった日本語教師の稼業を再開することになったのでした。キエフ大学の日本語科の事情による、とだけ言っておきましょう。私が11年前にロシア語の勉強を始めた同大の教室には、今では日本国外務省の助成で提供されたリンガフォンの設備があり、「中国語・韓国語・日本語講座」の視聴覚教室として使われています。その教室で今度は教師の役を演じることになろうとは……ま、私にロシア語を教えてくれたM先生に比べれば、私は教師を名乗るのも恥ずかしいようなものですが。それはそれとして、久し振りに見るはたち前後の学生の生き生きした表情は、10年前に国立キエフ言語大学の教室で初めて接した学生たちの目の輝き(日本のマンガかアニメみたいに、文字通り目をきらきらと輝かせている人がいました)を思い出させます。その間、こちらが、トシをとったのだなあということも思い出されはしますが。11年の間に、校舎の入り口やホールはだいぶきれいになっており、教室や学生食堂の内装も多少ましになったようです。講師の給与も、9月からまた上がるということです。正確にはどれほどのものなのかは、またいずれご報告します。 

 ウクライナ人日本語教師の水準の向上

現在キエフ大学で日本語を教えているウクライナ人講師のほとんどは、同大または言語大学の日本語科を卒業した若い人で、多くは学生時代に日本の国際交流基金のプログラムによる1年間の日本への留学を経験しています。日本語教師の職員会議はすべて日本語で問題なく行うことができます。教材に関しても、やはり国際交流基金の提供によるものが多く入っており、日本語教育の水準はここ10年でめざましく向上したといっていいでしょう(日本外交協会から派遣されていた、日本人講師の方々の尽力によるところも大きいでしょう)。一方、日本語を使えるキエフの職場がそれに応じて増加したかといえば、否定的な答えをせざるを得ません。そういうことについても、これからまた少しずつご紹介できるかと思います。 

 ウクライナ料理のレストランを開いては?

ところで、一時帰国中、愛知万博のウクライナ・パヴィリオンに私は行ったのですが、そこでコックとして働いている私の大家はたまたま休みの日で会うことができませんでした。8月に訪日した大家の息子さんによれば、彼女は日本がとても気に入り、将来も日本で働く可能性を考えているのだそうです。さてどうなることか? どなたか、ウクライナ料理の腕利きのコックをお求めでは?(2005年91213)

竹内高明(キエフ在住)