炎暑のウクライナ、欧州歌謡コンクール
オレンジ革命の寵児 グリーンジョリイ20位
今年のウクライナでは春が遅く、4月下旬に最後の冷え込みが来て積雪までありましたが、5月下旬になって急に暑さが到来。30℃を超える気温で、人々はいっせいに軽装になり、おりしもキエフで開かれたヨーロッパ歌合戦「ユーロヴィジョン」で都心はにぎわいました。
今年で50年目になるというこの催しは、ヨーロッパ各国がそれぞれを代表する歌手を派遣してその技を競うというもので、昨年ウクライナ代表の歌手(ルスラーナ・ルィジチコ)が優勝したため、今年はキエフで開催されることになったわけです。
もっとも、このコンクールに出場するのは二流の歌手であり、過去の優勝者で名が残っているのはABBAとセリーヌ・ディオン(カナダ出身だが、スイス選手として出場)くらいのものだという説もあります。今年ウクライナを代表したのは、「オレンジ革命」の真っ盛りに「僕らは多いぞ、打ち負かされないぞ」の歌詞で一世を風靡? したバンド「グリーンジョリイ」で、彼らが選ばれたことに政治的匂いをかぎつけたポップス・ファンの抗議行動もありました。結局彼らは20位の成績だったそうです。
インフレ、目立つ政権内のきしみ
「2030年までに11の原子炉増設」と強気の首相
一方、肉やガソリンの価格が高騰してそれに政府が介入、特にロシアの石油メジャーとティモシェンコ首相の交渉でガソリン価格が国家により統制されるという措置は、さまざまな反響を呼び、「共産主義時代の再来」という西側マスメディアの批判を招きました。この問題をめぐる首相(価格統制派)と大統領(市場経済重視派)の反目も取り沙汰されています。
また、クチマ前大統領時代の国営企業民営化に際して談合の疑いが濃い企業の「再民営化」(入札のやり直し)に関し、大統領は29社のリストを示唆。それがロシアの新聞ですっぱ抜かれたのに対し、首相は29社への限定を否定するなど、政権内部でのきしみが目立っています。
さらに、ティモシェンコ氏は2030年までに合わせて11の原子炉を増設するというプランを発表。2011年にはいくつかの原子炉が操業期限を超えるというのもその理由です。2030年までに、国内で核燃料サイクルの技術的・経済的基礎を築くという課題も提出されており、その理由として、世界的なウラン資源の減少が核燃料の価格高騰を招くことへの懸念、ウクライナでウランとジルコニウムが産出されることがあげられています。現在核燃料の製造をロシアに依存していることも、明言されてはいないものの、大きな理由の一つと思われます。
しかし環境問題・自然保護・原子炉保安省大臣トリッティン氏は、「既存の原発の近代化の資金も出せない国が、どうやって新規に原子炉を建設できるのか」と発言。もともとエネルギー業界の出身であるティモシェンコ首相の強気の政策が、どれほど現実的なものか、今後の政界の動きもからんで、正確な判断はまだ難しいというべきでしょう。
S氏によれば、立入禁止区域を訪れる一般人は、ウクライナ人・外国人を合わせて年間に三千数百人だとか。現在原発敷地内で働いているのは3,800人ほど。この人たちはスラヴチチ市から通勤している。同市から原発まで電車も走っている。チェルノブイリ市で汚染地域の調査研究に携わったり、立入禁止区域の管理・警備にあたったりしている人たちと、市内の外来病院や食堂・店舗などで働いている人たちは合わせて3,850人ほどで、彼らは15日汚染地域で働くと次の15日は休みになり、汚染地域を出る、という勤務体制だそうです。
立入禁止区域内の住民人口 4年で半減立入禁止区域内に定住している人たち(いわゆるサマショーロ)は、事故前からの住所に住んでいる場合、居住登録を受け、年金の支給も受けているそうです。登録されている人たちの数は324名……と言われたように思いますが、メモをしていないので、違っているかもしれません。 2001年にウクライナ科学アカデミーが発行した論文集『チェルノブイリ 立入禁止区域』によると、1994年1月20日時点でのサマショーロの数は828人。1995年に彼らの居住は「合法化」され、2001年には648名が登録されており、ゾーン内の施設で働いている人もあると書かれています。
上記の記憶が正しければ、4年ほどの間に人数がちょうど半減しているわけです。2001年の時点で、彼らの大半が60〜85歳の老人であったことから考えて、死亡による自然減なのかもしれませんが、それは私の臆測にすぎません。
原発から17キロ地点に住む高齢者
村の住民は16人
この日、TV会社の方たちの希望で、私たちを乗せた車はチェルノブイリ市からスラヴチチ市に向かう方角にある村(原発からの距離は17〜18km)に行き、そこに住む70歳の女性のお宅の前で立ち話をしました。
彼女はいったん移住した先で住居の問題があり、生まれてからずっと住んでいたこの村に戻り、お連れ合いと畑を耕していましたが、事故処理作業もしていた夫君はガンを発病、キエフなどで治療も受けたものの今年2月に亡くなったとのこと。2人の息子さんはベラルーシに住んでおり、時には10kmほど離れた街道まで歩いて車を拾い、息子や孫に会いに行くそうです。以前は上の息子さんも車でこの村まで来ていたのですが、ある時点から国境の税関で車を通してくれなくなりました(理由はよくわかりませんでしたが)。
この村は、S氏によればさほど汚染されておらず、彼女を含め16人が住んでいる由。週に2度は物品販売車が来るので、必ずしも土地でとれるものだけを食べているわけではありません。以前、「チェルノブイリ救援・中部」の代表団と訪問した、ジトーミル州ナロジチ地区の強制移住区域の村に住む女性の場合は、ナロジチ町の消防署の人が時々パンを届けたり、冬場にはペチカ用の薪を割ってあげたりするという話でした。
彼女の村には確かもう1人くらいしか住んでいないので、物品販売車など来ないのでしょうか。それともそういうサーヴィス(?)は立入禁止区域内に限られているのでしょうか。後で浮かんだ疑問なので、答えを確認していないのですが。
路上では陽が照り付けてけっこう暑く、頭をプラトークで包んだおばあさんの額にも汗が浮かんでいたので、話は10分くらいで切り上げました。前日にはドイツのTV会社が撮影に来たということでした。これも後で思ったのですが、大統領選挙の時には、サマショーロの人たちも投票したんでしょうか? それとも、彼らの選挙権は、得票数のごまかしに利用されたんでしょうか?
放牧された馬の姿は?S氏によれば、90年代、実験目的で立入禁止区域内に十数頭の馬が放され、現在では四十数頭に増えているというのですが、車窓から動物の姿は見かけられませんでした。プリピャチ市内にも入り、荒れ放題に草木が茂った道を通って、S氏の2人の息子さん(事故当時6歳と2歳半だった)が通っていたという幼稚園に入りました。
扉のガラスは外れ、人形などのおもちゃが内外に散らばっていました。プリピャチは4つの地区に分かれており、そのそれぞれに幼稚園や学校があったそうです。文化・観光省とK氏の会社の両方でアルバイトしているという、キエフ大学の学生Aさん(女性)に、S氏が「戦争の後みたいだろう?」と話しかけると、Aさんは「もっとひどい」と答えていました。Aさんのお祖母さんはかつてプリピャチに住んでいたということで、町を走る車内からAさんはお母さんに携帯で電話し語り合っていました。
そして原発から30kmの検問所に戻り、再び車を替え、2時間も走らないうちに、プリピャチから移住した人たちの多く住むキエフ郊外のトロエシナ地区に着きます。以前私がチェルノブイリに行った時は、2回ともキエフに戻ると夜になっていたのですが、この日は早朝にキエフを出ており、まだ午後3時前でした。
大きく新しいスーパーマーケットの中のこぎれいなピザ屋でピザのトッピングをいろいろと注文し、談笑しつつ食べているという行為が、数時間前まで歩き回っていた場所の景色とあまりにかけはなれて感じられました。
しかしそのすぐ後で、19年前までプリピャチに住んでいた人たちの団体の集会室に私たちは行き、彼らの話を聞いたわけです。事故処理作業者だった夫は90年代に心不全のため路上で突然死、息子さんの一人は脳腫瘍に罹っているという女性の話もありました。
6月下旬に本番のTV番組撮影があり、私はまた汚染地域に入ることになるかと思います。時間があれば、上記の論文集にもう少し目を通しておくつもりです。なお、6月に入って気温は20℃台に下がり、7日などは日中16℃でした。
(2005年6月7日)
竹内高明(キエフ在住)