近藤繁司はウラジオストクで大正半ばに運輸・回漕・倉庫業を、その後、旧満州で近藤林業公司を設立、林業を中心に事業を展開し、生涯を通してロシアと深く関わった人物である。近藤繁司は私の祖父である。
私は1937年にハルビンで生れた。私の両親・高橋誠一、清子は共にウラジオストク生まれである。さらに、私の母方の祖母で、近藤繁司の妻・静子もウラジオストクで生まれている。こうして数え上げれば限りがない。いくつかの結婚により紡がれた人間関係が、ロシアとの関わりを深いものにしていった。それは、ウラジオストクに始まり、さらにハルビンへと移った。一族の多くの人間が、一世紀以上も前からウラジオストクに、また、ハルビンに根を下し生活をしていた。ここでは、ウラジオストク時代とハルビン時代に分けて、キー・パーソンとなる幾人かを中心にお話したい。(家計図参照)
T.ウラジオストク時代
川邊虎(かわべ たけき)の存在は、その後の、近藤繁司を始め、一族の運命を左右したと言っても過言ではない、ロシアとの関わりをつくった人物である。虎は私にとって、母方の曽祖父、つまり、祖母・静子の父に当る。虎は水戸徳川御側用人の川邊善続の四男として、文久元年(1861年)に小石川の江戸藩邸に生れた。東京にある攻玉社で英、数、諸学科を修めた。攻玉社は、福沢諭吉などと並ぶ明治六大教育者の一人である近藤真琴が、数学、オランダ語、航海術などを教授する蘭学塾として創立した私学である(現存)。
虎は攻玉社を卒業すると、愛媛県那郡の書記の職に就く。だが、3年後の明治21年(1888年)に27歳でウラジオストクに渡る。縁もゆかりもない、今だ漁港の趣を残した未知の地に渡る決心をさせたものは何であったのか。当時の日本は西洋文明がどっと押し寄せた時代である。この年には伊藤博文が朝鮮諸港とウラジオストクを視察していて、日本のロシアに対する関心も高まった。多感な時期を東京で過ごした虎がこの影響を受けないはずはない。攻玉社で英学を学び西洋に憧れ、一番近い外国であるウラジオストクに新天地を求めたのも想像に難くない。
彼はここで貿易の仕事に携ったが、どのような物を扱っていたのか、詳細は不明である。
明治25年(1892年)に、近藤熊夫・ハルの一人娘である16歳の正(しょう)と結婚する。熊夫・ハル夫妻は九州大分県西国東郡の出身で、ウラジオストクで旅館「扶桑舎」を経営していた。初期にウラジオストクに渡った日本人は、九州の出身者が抜きん出て多かった。熊夫もその一人である。「扶桑舎」はウラジオストクの日本人経営の旅館としては、最初に開業したようである(註1)。当初はセメノフスカヤ街にあったが、その後、ペキンスカヤ街の日本総領事館の向いに移っている。日本人利用者の急増のためと思われる。新聞の広告に《高等御旅館 浦潮斯徳ペキンスカヤ街 日本総領事館前 扶桑舎》とあるから、かなり繁盛した様子が伺える。
正は戦後まで健在で、幼少時の私の記憶にも鮮明に残っている。五尺足らずの、とても小柄で華奢な、いつも着物をきちっと着た品のいい日本婦人の典型のような人だった。その曾祖母が16歳で結婚し、10人もの子供をもうける。しかも、そのうちの7人までをウラジオストクで生んだというのは驚きである。虎がどのような覚悟でウラジオストクに渡ったかは定かでないが、ここで家庭を持ち、7人もの子供を設けたということは、この地が住む環境が整っていて、気に入っていたに違いない。
急速に増大した在留邦人のために、1892年に結成された「浦潮斯徳同盟会」は1895年に「浦潮斯徳同胞会」に改組、1906年には発展して「浦潮斯徳居留民団」に改称された。虎はその初代会長に推される。居留民団と改称された後も、引き続き会長を務める。居留民団は在留邦人を職種別に組織した互助団体という特色をもっていた。また、旅券業務、日露両国官憲とのパイプ役となるほか、児童の教育、郵便物取扱などその扱う業務は多岐に渡った。(註2)虎は会長として、邦人から多大の信頼を得ていたようである。明治37年(1904年)の日露戦争勃発時における同胞の内地引き上げに際しては、川上貿易事務官を助けて敏腕を振るった。その後、再びウラジオストクに渡るが、ロシア革命による日本人引き上げにも尽力することとなる。この2度にわたる引揚げに際しての功により勲六等瑞宝章を授与されている。当時の写真を見ると、虎は堂々とした風貌で、燕尾服がよく似合う老紳士である。
虎は子供たちの教育を内地で行なうため、敦賀蓬莱町に居を構えた。この家には明治37年から大正12年まで住んでいた。当時、敦賀はウラジオストクとの間に定期航路が頻繁に行き交い、42時間という、露国と最短距離にある港町であった。町自体は整然と区画された小京都の趣があったが、波止場はこれと対象的に、ロシア領事館や税関の西洋館が立ち並び、船の入港時には活気にあふれた。蓬莱町の家について、川邊家の四男が回想しているところによると、家にはシンガーミシン、炭を入れて暖めるロシア製のアイロンがあり、ロシア製のレースのカーテンが間仕切りに掛けられ、ロシアの更紗模様の壁紙が張ってある部屋があり、イタリア製の手風琴やバイオリンもあった。子供たちは両親のことを“パパ”、”ママ”と呼んでいた、とのことである。敦賀では異色の一家だったに違いない。また、ウラジオストクからは一抱えもある丸いパン、カンフェータという飴、一つひとつ切る前の四角い板状のままのイリスというキャラメル、スーシカという子供の腕輪のような菓子などが定期船で運ばれてきたことを、半世紀以上経った今でも鮮明に覚えているところを見ると、子供の時の印象はかなり強烈であったようだ。虎は年に一二度敦賀に帰ってきて、各新聞社のインタビューを受け、露国の近況を話すのが常であった。晩年、虎は浦潮新聞主催の「故老に聞く」という会でウラジオストクの話を頼まれたことがあって、その話はユーモアに溢れて聞くものが皆、膝をのり出したと同新聞は書いている。この時代のウラジオストクからもたらされる情報、食文化、品物はどれもが新鮮で、驚きをもって迎えられたことが察せられる。
近藤繁司(こんどう しげし)は大分県西国東郡の出身で、川邊虎の妻・正の遠縁に当る。幼くして両親に死に別れ、虎の紹介でウラジオストクに赴く。一説には、繁司の姉・キヌが長崎出身の大工・高橋寿太郎と結婚し、建設ブームに沸くウラジオストクに渡り、弟を呼び寄せたとも言われている。いずれにせよ、繁司はここで、大阪商船の直営店である林回漕店の社員になる。虎は彼をとても高く評価していた。明治43年(1910年)に17歳の次女・静子を11歳年上の繁司と結婚させる。
この結婚は川邊家、近藤家、それに近藤繁司の姉の嫁ぎ先である高橋家のその後の運命を決定付けるることになる。繁司は大正8年(1919年)に林回漕店を退社し、ウラジオストクに「商船組」を創立する。日本政府命令航路定期船の代理店として、運輸、回漕、倉庫業を経営する。1917年にロシア革命が勝利を収め、ウラジオストク・ソヴェートが一時権力を掌握したが、内戦、外国の干渉、コルチャーク政権の樹立など、混乱が続くなかで会社を立ち上げようという発想は説明がつかない。しかも、ソビエト政府より8年間の埠頭の使用許可を得て(註3)、シロキモール埠頭に桟橋、事務所、住居、鉄道引込線および倉庫群を建設した。個人企業がソビエト政権下で営業を続けられたというのも驚きである。だが、業務を続ける苦労は並大抵ではなかった。繁司の秘書はKGBの人間で、その一挙手一投足はすべて当局に報告されていた。支配人の逮捕という事態まで起こった。繁司は日露戦争とロシア革命の二度にわたる邦人引揚げの際も現地に留まった。困難にもかかわらず、ウラジオストクの「商船組」は1919年から1932年までの13年間営業を続けた。
註1:『セーヴェル』誌4号記事 杉山公子「浦潮に生きた人びと」
註2:原暉之著『ウラジオストク物語』
註3:『北日本汽船株式会社二十五年史』昭和14年刊(杉山公子氏提供)
註4:川邊武彦著 私家版『河邊家の人々』を参照 (次号につづく)