ふと思う。……いっそのこと協会自前の装置を持てないか? あの簡易同時通訳装置で良いのなら高くはないのではないか。先生のロシア語をヘッドホンでクリアな音で聞き、隣の人の声に邪魔されないでシャドーイングができるだけの装置で良いのだから。今後の講習会で何回も使える装置を20−30万で購入できるのなら、設備投資としては決して高くはないし、投資する価値はあるはず。できるかもしれない。移転で年間の事務所賃貸料が大幅に安くなり、米原会長がタフ・ネゴシエーターぶりを発揮して代々木の不動産会社から敷金を全額取り戻した今ならば……
久しぶりにロシア語通訳訓練講習会ができることになった。和文露訳添削講座をはじめ、私達の協会で多くのロシア語講習会をして下さっている原ダリア先生からの提案である。この講習会はトレーニングを目的とし、時事をテーマにしたテキストを基にシャドーイングなどの教授法を取り入れたいと先生はご希望。そこで三浦さん、岡本さん、村山さん、私の学習会担当者がメールで話し合って、「時事のロシア語・アタマと口のトレーニング」と名づける。そうとなれば、まずはLL教室を探さなければならい。こういう時に役に立つのが役員会のML。このMLはいま陰で大きな力を発揮している。何かあれば即MLで討議し合い、助言し合い、必要な意思決定もできる。即、MLで役員の皆さんにLL教室探しのご支援をお願いする。
こうして、過去に借りたことのある東京ロシア語学院には私が電話をかけ、NHKバイリンガルセンターにはBSで放送通訳をしている清水さんに聞いて貰う。いずれもそれぞれの事情で貸して貰えない。岩谷さんは宇多先生に上智大学のLL教室を貸してもらえるか聞いて下さる。上智大のLL教室が超最新式であることは大学のHP に載っている写真で知っていた。しかし、それほどの装置となるとオペレーターが操作しなければならないので、土曜日は宇多先生の授業といえども借りる事はできないそうである。
その他のめぼしい大学や語学学校に電話をするが貸してくれる所は無い。
ならば簡単な装置を借りることはできないか。その昔、東京ロシア語学院で開催していたシンポジウムで他言語の通訳の方達を招待し、ロシア語から日本語への同時通訳をデモストレーションしていた時に使ったあの簡易同時通訳装置が思い出される。あれはLL装置の代わりに使えるのではないか。米原さんが当時のレンタル会社の連絡先を探し出して下さったが、その会社とは連絡が取れない。それではと、またインターネットで同時通訳装置を貸し出している会社を探し、電話で聞いてみる。一社だけ私達が訓練に使えそうな装置を貸し出せると言う。オペレーター付きで一回6万円が一番安い値段だそうである。全5回で30万円。高い。そんな大金、10人しかいない受講者の負担にするわけには行かない。
そもそもこの課題は以前からあった。ロシア語の講習会をするたびに担当者達は、講習会をもっと効率的にできる方法はないかと考えていたのである。事務局長だった頃菊次さんもLL装置について調べている。LL装置は一番小さな、安いものでも300万から400万することも知っているはず。この簡易装置について意見が聞きたくなり菊次さんに電話をかける。菊次さんは、LLとしての全部の機能が無くても、20〜30万で代わりの装置が購入できるのであれば投資する価値があるのではないかと支持してくれる。方向性は間違っていない。次にやるべきことは下調べ。
音響のオの字も知らない私が何度も店を変え、時を変えて下調べ。店員さん達に食い下がる。何が必要か理解してもらうのに時間がかかる。我が協会の学習活動に適合した装置で無ければならない。つまり20−30人以上の聴衆を対象としている学習会での講師の声の拡声と録音、そして少人数のロシア語講習会ではLL装置の代わりになる組み合わせができるのか。どの店でも、店員の皆さんは親切に聞き、丁寧に説明してくださる。できるのである!それも20万円ぐらいで。CD・MD・ラジカセ→ミキサー→ヘッドホンアンプ→ヘッドホンと組み合わせればできるという。心が弾む。店員さんは私がすぐにでも買うと思ったかも知れない。でも買わない。親切な店員さん達には悪いけど、一人じゃ決められない。
協会にとって20万円という出費は大変なことである。失敗があってはならない。まずは役員の皆さんの同意を得なくてはならない。下調べをして技術的に可能と知り、またMLで「投資してみませんか?」と「音響専門家探し」を役員の皆さんに問いかける。さすがは人生経験豊かな皆様、節約はしていてもお金の使いどころは知っているし、知人の層も厚い。すぐに米原会長はじめ、他の役員の皆さんの同意・応援の意思表示がある。清水さんは音響専門家の紹介をして下さる。忙しい菅原事務局長からは後から電話でOKの返事を貰う。
忙しいスケジュールの中で貴重な時間を割いて相談にのって下さった方は劇団民藝の音響専門家の岩田直行氏である。清水さんと一緒に新宿で岩田氏と会う。相談する中で、単に一方的にヘッドホンで聞くだけでなく、受講者もマイクを通して先生に聞いてもらえるように双方向にすることができると教えてもらう。音響専門ミキサーを使い、それにマイクをつなげば双方向になるという。それって、もう、「限りなく本物に近い優れたるLLもどき装置」ではありませんか。最初の見積価格よりも高くはなるけど、もう迷わない。待たない。こうなったらなんとしてもこの講習会に間に合わせたい。またMLで皆さんの合意を乞う。皆さんからはこだまの様に賛同の返事が返ってくる。
すぐに「ゴーサイン出たり!」と岩田氏に連絡し、二日後にお知り合いの音響機器卸業ファースト・エンジニアリング社に案内して貰う。社長の吉田氏と話し合う中で決まった機器は12のマイクがつなげるミキサーと10人用のディストリビューター(ヘッドホンアンプ)、それに最も一般的な密閉型ヘッドホンと普通の有線マイク。店回りしている時に考えていたノイズキャンセリングヘッドフォンも、スリムで姿の良い単一指向型マイクも私達の用途にはそぐわない事が分かる。やはり、餅は餅屋に任せるのが一番。「餅屋に任せよ」とは横山副会長の助言でもあった。
でも一つ、自分で買わねばならないものがあった。音響専門品ではない「民生品」でどこでも買えるCD・MD・ラジカセである。ダリア先生との最初の打ち合わせで今回の講習会ではMDを使うことになっている。カセットテープ世代のアナクロな私が、この「優れたるLLもどき装置」につなげて、しかも学習会用の拡声・録音機能を併せ持ち、MDからMDへのダビングもできる機器を選ばなければならない。責任重大。失敗はしたくない。しかし、探せども全部の要求を満たすものは無い。困った。どうしよう。
こんな時いつも冷静な判断で助けてくれるのが岩谷さん。岩谷さんのお勧めに従い、今回の講習会では、以前から協会にあるCDラジカセを使うことにする。そのうち私達に合った機器も売り出されるかもしれない。ここは主婦の本領発揮。賢い消費者になって待つのが一番。決めたら急がねばならない。申し訳ないと思いつつ、CDで準備し直してくださるようにダリア先生に頼み込む。すでにMDで準備を進めていたダリア先生も、「自分も協会に協力する」と快く応じて下さる。
講習会が始まる二日前、ファースト・エンジニアリングの方達が取り付けに来てくださる。25%ほどの値引きが嬉しい。おかげで、これまで一本のマイクスタンドも買わないでいた協会なのに、なんと先生用も含めて11本のマイクスタンドが一気に机の上に林立(!?)する。 11本のマイクもミキサーにつながる。同じく10個のヘッドホンがディストリビューターにつながる。清水さんと岩谷さんも手伝って下さってテストも終了。後は本番を待つばかり。
7月10日、講習会初日。ダリア先生は1時間前に事務所に来て下さる。使い方の説明をする。マイクの切り替えは横一列に並ぶ赤い小さなボタンを押して行う。発言者が変わるたびにボタンを押し、切り替えなければならないのだが、先生はこの装置で十分と大いに喜んで下さり、早速に受講者の名前を各ボタンの下に付箋で貼り付けられる。
全員そろったところで、受講者にヘッドホンとマイクの説明。皆さんなんとなく緊張気味。さぁ、授業開始。ヘッドホンから先生の美しいロシア語が直接にクリアな音で耳に飛び込む。これぞ望んでいたこと!先生がマイクを通して指示を出し、受講者がマイクを通して応答し、そのやり取りを全員がヘッドホンで聞く。CDから流れるテキストもヘッドホンからクリアに耳に入ってくる。それを集中して聞きながら、全員で、シャドーイングして行く。隣の人のナマの声はそれほど気にならない。
「マイクを通した声が全員に流れる」―これがこの装置のLLと違うところだろうが、これは強みでもある。先生と受講者のやり取りを全員が聞くことできることは、ブースではなく全員が一緒に机を並べて学ぶ場所では、他の受講者のためにもなるし、何よりも授業をスムーズに進行できる。しかしシャドーイング時に受講者の声が重なって入るのは困る。皆さんに聞いてみる。全員ではないらしい。ミキサーの押しボタンの状態によるようである。24日の土曜日に出張から帰られた岩田氏に装置の点検に来て頂く。音の調整とミキサーの操作の説明をして頂いた。音が大変聞きやすくなったと受講者達も大いに喜ぶ。
ロシア語の実力アップのために誰もがそれぞれ日頃から研鑽されていることであろう。協会としてもこれまで数多くの学習会や講習会を行ってきている。中でも今思い出すのは、ロシア語通訳協会の黎明期に、今の東京ロシア語学院のLL教室に日曜日毎に通い、自主的にシャドーイングの訓練をしていた人達のことである。その方たちは現在同時通訳の第一線で活躍している。あの自主訓練には、力をあわせて励ましあいながら、切磋琢磨し合ってゆく私達協会の精神が発揮されていたと思う。当時、多くの制約があり何もできなかった私は、訓練している皆さんを遠くから眩しい思いで眺め、羨ましく思っていた。あのような場もLL教室があってこそできたのであろう。
今回、私達がやっと手に入れたこの装置も、これからのロシア語通訳訓練講習会で役立つだけでなく、そのような熱意のあるグループが自主的に訓練に使うこともできるのである。多くの会員の活発な自主的活動の中で、この装置が活用され、私達通訳協会のユニークな精神がますます発揮されてゆけば、この装置を導入した価値があったことになる。
みなさま、どうぞ大いにお役立て下さい。 (2004.7.29)