5月というのに梅雨時のような雨雲が西から動いている合間を縫って四国の丸亀に筆塚真理子さんのお墓参りに行ってきた。

外で勤めということをしたことのない典型的な「箱入り奥さん」をやってきた母のおしゃべりをあの大きな目をさらに大きく見開いて「それで、それで」と聴いてくれていた真理子さんが二〇〇一年の一月、京王線多摩の病院に入院してからも、亡くなったときの告別式にも、歩行が不自由になっていた母は、行くことができず、そのことがずっと心残りで「どうしてもお墓参りに行きたい」と娘の私が時間をつくるのを待ちかねていた。

脳溢血の後遺症で字が小さく曲がってしまうようになっていても筆塚さんがユーモアあふれる元気な葉書をくださるので、母は大喜びで返事を書き、電話をし、そういうコミュニケーションが母の精神のリハビリだった。

毎朝、般若心経をとなえ、夫や親類、お世話になった方達の戒名を唱えて、そこに筆塚さんの戒名も加え、「夢にでもいいから会いたい」と祈り続けてついこの間「真理子さんの夢を見た」と大喜びだった。その真理子さんの故郷の風景が見たいという思いもあって、四国に渡る夢は大きくふくらんでいた。

筆塚さんのお墓は丸亀駅と宇多津駅の間にあたる墓地にあった。

もうあと一ヶ月もつかどうかという段階で初めて病気のことを知ったお母さんは日野のマンションと多摩の病院をあの一月のみぞれ混じりの氷雨のなか行き来し、真理子さんの世話をしていらした。

出棺のとき「真理子、どこにいっちゃうの!」と叫んだお母さんの声は今も耳についている。

幸い、真理子さんの妹はふたりとも若いおばあちゃんになっていて、真理子さんのおかあさんは四人のひ孫ができ、大忙し。わたしたちを丸亀の駅まで出迎えてくださって、すぐにお墓参りに連れて行ってくださった。

どう通っていったらいいか分からないような新旧の墓の間を通ってやっと筆塚さんの墓の前にたち、正面には真理子さんが亡くなる数年前に他界されたお父さんの戒名、横側に真理子さんの俗名と戒名がきざまれている墓石に水をかけているとき、めったに鳴らないわたしの携帯が「ズーン、ズーン」と震えた。

野口さんだった。丸亀に行ってくる、とだけ言って時間も日程も言ったわけではないのに、まさに筆塚さんのお墓の前で通訳の仲間から電話とは!ただただ驚いて、お母さんに携帯を渡し、話していただいた。お母さんは「みどりさんのほうから野口さんに電話をしたのか」と思った、とあとでおっしゃった。

1970年代半ば、東京駅八重洲に「東京ロシア語アカデミー」が開かれ、「ロシア語会話のエチケット」他楽しい教材を使ってどんなに無口な生徒からも立派にロシア語を引き出してしまう魔法使いのようなアキーシナ先生がロシア語会話を教えておられ、筆塚さんはそこの企画、事務をしていた。

その合宿が「山田牧場」で開かれて、参加したとき初めて筆塚さんに会った。講師はアキーシナ先生のほか河島みどりさん、参加者の中には黒岩さん、中神さん、楠山さん、五月女道子さんなどがいた。

アキーシナ先生と筆塚さんはどちらも 会うと実に楽しそうにまた新たな企画がある、と言う感じで二人とも思いがけないひらめきを楽しみ合っている風だった。ロシア語の勉強に夢中で、年下なのに(とは知らなかったが)偉そうなことばかり言う生意気なわたしにも筆塚さんは親切に丁寧にそして手際よく事務手続きなどしてくれ、アカデミーの生徒さんは多かれ少なかれ、彼女のきめの細かいサービスのお世話になったのではないだろうか?

そんな 筆塚さんが ロシアに語学留学に行くのは当然なのにそれはずいぶん遅かった。わたしが何より筆塚さんを尊敬するのは、ソ連への留学が決まって訪ソのつもりで上京してきた彼女がリストからはずされていたという、政党や労働組織の幹部などとのつながりにおいてしかソ連留学が実現されない不公平をもろに受けたのに全然それを恨まず、自分が与えられた仕事を誠意をもって淡々とやっていたことだ。

筆塚さんは「ねたみ、そねみ」「かげぐちをたたく」という暗いところが全然なかった。わたしにはとてもまねできない。

ロシア語アカデミーが廃校になり、「フリーのロシア語通訳になりたい」と相談を受けたときには、アカデミーで学ぶ機会を作ってくれて、そのほかにも親子でお世話になってきたお礼が出来ればと心から応援し、知っている限りの裏技(そればっかりの恨みはあるが)を伝えたものだった。

筆塚さんは舞台女優になりたかったそうだが、通訳として立派に舞台に出られるようになっていたし、念願の国際会議の同時通訳も、放送通訳もこなしていた。お母さんの話では英語は良くできて文化系の勉強は大好きだったという。

あんなにエネルギーに満ちて、仕事が好きだった筆塚さんが道半ばにして倒れてしまって、どんなに無念だったろう。もう、絶体絶命だと知らされた2001年の1月、わたしは自分の部屋で布団を敷きながら、「どんな怖い仕事でも、難しいことでも、舞台にでることでもなんでもやりますから、筆塚さんを助けてください」と神様に訴えて泣いた。臆病風を吹かせてばかりの、わたしの祈りはやはり届かなかった。

今、怖い仕事が回ってきたときには「筆塚さんに申し訳ない」といいきかせて、恐怖を飲み込むことにしている。